第1話 前髪の密度について

月曜の朝、いつもの通勤電車に揺られながら、トモユキはふと窓に映る自分の顔に違和感を覚えた。
顔ではない。目でも鼻でも、口でもない。それはもっと上のほう――額、いや、そのすぐ上。前髪のあたりだった。

満員電車の中、窓はうっすらと曇っていたが、反射ははっきりしていた。彼の目は自然と額のラインに引き寄せられた。
ほんのわずか、だが確かに――前髪の密度が薄いように見えた。
いつもそこにあるべき“影”が、曖昧になっていた。

「照明のせいかもしれない」
そう思って顔をわずかに傾けてみる。だが、角度を変えるほどに、それは明らかになった。髪の隙間から額の地肌が不規則に覗いている。
「え?」と小さく声が漏れた。

トモユキは周囲の視線を恐れて目を逸らしたが、視界の片隅に映る“それ”から完全に意識を切り離すことはできなかった。
額が、広がっている。いや、生え際はそこまで後退していない。問題は密度だった。
かつて厚みがあったはずの前髪が、どこか頼りなく、軽く、透けて見える。毛量の問題だ。
電車を降りると、彼はまっすぐ会社のトイレに向かった。

鏡の前に立つ。
無言で、手のひらで前髪をすくうように持ち上げる。
白い蛍光灯の下で、そこには明確に、肌の色が広がっていた。まるで新たな地図のように。

「……うん」
小さな声が漏れる。
それは自分を落ち着かせるための言葉だった。認めるでも否定するでもなく、ただその場をやり過ごすための曖昧な音。

その日は仕事にほとんど集中できなかった。
パソコンの画面にうっすら映る自分の顔。
ガラス張りの会議室。
同僚とランチを取りながら映るスマホ画面。
それらすべてが、まるで静かに嘲笑うように、彼に問いかけてくる。
――お前、本当に気づいてしまったのか?

午後、後輩のナカムラが何気なく言った。
「トモユキさん、最近ちょっと雰囲気変わりましたね。なんていうか、スッキリした感じ?」
その一言に、彼の心臓が跳ね上がった。
それは何を意味している? 髪が“減って”スッキリしたのか?
「そ、そうかな?」
無理に笑って返す。唇は笑っていても、眉が引きつっているのが自分でもわかる。
――頼む、気づいてないでくれ。

その夜、駅前のドラッグストアに立ち寄った。
今まで素通りしていた棚――育毛剤コーナーの前で、足が止まる。
そこにはいくつものボトルが、整然と並んでいた。
黒、青、銀のパッケージ。
「発毛促進」「毛根覚醒」「ナノ浸透」――誇大広告じみた文字たちが、何かの呪文のように並んでいた。

彼は一本のボトルを手に取った。育毛ローション。7,480円。
手の中で妙に軽く感じた。
これを買えば、自分はもう元には戻れない。“そっち側”の人間になる。
彼は棚に戻し、逃げるように店を出た。

夜、風呂上がり。
ドライヤーの風が、やけに額に当たる。
そう感じて、思わず風を止めた。
鏡を見ると、濡れた前髪が肌に張りついて、地肌がくっきりと見えていた。

「……まじかよ」
言葉は軽かったが、口調には乾いた重さがあった。
乾かしながら、彼は思った。
「これは、始まっているのか?」
否定はできなかった。
気づいた時には、すでに“始まっていた”のだ。音もなく、静かに、冷たく。

翌朝、また電車の窓に映る自分を見た。
まったく同じ光景のはずなのに、何かが昨日よりも“進行”しているように感じた。
おそらく気のせいだ。それでも気になる。
自意識は拡大し、視線は前髪ばかりを追っていた。

隣に座った若い女性が、スマホのインカメラを起動して前髪を直しはじめた。
その画面に、自分の“地肌”が映り込むのではないか――そんな強迫観念に襲われ、彼は思わず体をずらした。
彼女はこちらを見もせず、無関心なまま画面に向き合っていた。
だがその無関心すら、彼には刺さった。
「俺の前髪が、社会から切り離されていく」
そんな意味のない詩のような言葉が脳裏をよぎった。

電車を一駅早く降りる。
理由はなかった。ただ、鏡のない場所に行きたかった。

駅前のビルのガラスに、ふと映る自分の影。
確かに、そこには“かつての自分”とは違う男が立っていた。

歩きながら、彼は静かに問いかけた。
「もし、このまま薄くなっていったら、俺はどうなるんだ?」
誰も答えなかった。
答えがないことが、答えだった。

彼はそっと額に手をやった。
風が吹いた。
その風が、まっすぐに、地肌に届いた。

それは、誰にも見えない、彼ひとりの予兆だった。
人生のどこかが、音もなく、密かに、軋み始めていた。