昼から降り出した雨は、夕方になっても一向に弱まる気配を見せなかった。
オフィスビルの窓は雨粒で曇り、外の景色をぼやけさせている。
ビルの向かいにある古いビジネスホテルの看板が、雨に滲んだネオンでぼんやりと赤く光っていた。
その光が、トモユキのデスクに置かれたステンレスのマグカップにも映り込んでいる。
パソコンの画面を閉じ、ふと窓の外に目をやると、歩道を行き交う人々はほとんどが黒い傘を差していた。
自分の傘は――と机の横を見る。そこには、細身の黒い折りたたみ傘。
新しいものではないが、軽くて持ち歩きやすい。
しかし広げると、彼の肩とリュックがぎりぎり入るくらいの大きさしかない。
二人で入るとなれば、間違いなく肩が触れる距離になる。
退社時間が近づき、社内の空気がゆるむ。
書類をまとめ、机の引き出しを閉めたそのとき、ふいにエレベーター前に立つ人影が目に入った。
美香だった。
彼女は両手を軽く前で組み、窓の外の雨を見上げている。
傘は持っていないようだ。
「雨、強くなってますね」
トモユキに気づいた美香が、少し首をかしげて言う。
「そうですね」
彼は短く答える。視線を合わせるのが少しだけ怖い。
「……もしよければ、駅まで一緒に入れてもらっていいですか?」
その一言で、彼の胸は不意に跳ねた。
言葉にすると何でもない申し出だが、彼にとってはこの数年で最も近しい距離を予感させる瞬間だった。
外に出ると、雨はビルの屋根を叩く音で会話を消し去るほどだった。
トモユキは傘を開き、無言で彼女の横に差し出す。
美香が歩み寄った瞬間、二人の肩がかすかに触れた。
その距離感は、親密さと緊張の境界線。
美香の髪からほのかにシャンプーの匂いが立ち上る。
その香りが雨の湿気と混ざり合い、彼の呼吸を微妙に乱した。
「すみません、狭くないですか?」
「いえ、大丈夫です」
会話はそれきりで、雨音が二人の間を満たす。
商店街に入ると、街灯の下で傘の水滴がキラリと光った。
そのとき、大きなガラス張りの店先を通る。
ショーウィンドウには、マネキンの後ろに傘をさした二人の姿がぼんやりと映っている。
だがトモユキの視線は、そこに映る自分の頭頂部に吸い寄せられた。
雨粒を受けたガラスが乱反射し、街灯の光をそのまま頭頂に載せている。
実際よりも広く見える気がして、背中に冷たいものが走った。
ほんの数センチ、彼は身体を引いた。
意識せずとも、無意識のうちに距離を作っていた。
それは彼にとって「安全距離」のつもりだったが、傘の下の空気は途端に温度を失った。
美香は何も言わず歩調を合わせてくれる。
だがその沈黙は、優しさなのか、それとも気づかないふりなのか、彼にはわからない。
駅前に近づく頃、ロータリーのネオンが雨に滲んで色とりどりの水たまりを作っていた。
人々がそれを踏み、波紋を広げながら急ぎ足で改札へと吸い込まれていく。
「……今日の雨、なんだか記憶に残りそうです」
改札前で足を止め、美香は唐突にそう言った。
トモユキは一瞬言葉を探し、結局何も返せなかった。
問い返す前に、美香は人混みの中へ消えていった。
残されたのは、傘の先から滴る雨水と、彼女の言葉だけだった。
「記憶に残りそう」――それは良い意味か、悪い意味か。
もしかして、あの一瞬の距離に気づいていたのか。
答えは、雨と共に改札の向こうに消えたままだった。
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