雨上がりの朝。
目覚めた瞬間から、空気がまとわりつくように重かった。
カーテン越しに射し込む光は白く濁り、部屋全体が湿った布で覆われているようだ。
窓を開けると、昨日の雨を吸い込んだ街が、一斉に息を吐き出すような匂いを放っていた。
アスファルトの亀裂からは雑草が、濡れた葉をぴんと伸ばしている。
その青臭い香りを胸いっぱい吸い込んだ瞬間、昨夜の記憶がよみがえる。
美香の「記憶に残りそうです」という声。
不意に、背筋に冷たいものが走る。
――どういう意味だ? なぜあんなふうに言った?
肯定にも否定にも聞こえる曖昧な言葉。
その裏に潜む意図を、彼はまだ見つけられずにいた。
洗面所へ行き、無意識に頭頂へ手をやる。
指先に触れるのは、細く柔らかくなった髪。
鏡の中の自分は、光を反射する額の上あたりに、かすかな地肌の丸みを見せている。
「……湿気は敵だな」
自嘲気味につぶやき、タオルで強く髪を拭く。
だが湿度は、髪の立ち上がりを奪うだけでなく、彼の自信も削っていく。
ドライヤーをあてながら、ふと大学時代の友人・田嶋の顔が浮かんだ。
彼は20代半ばで頭頂部が目立ち始めていたが、それを逆手に取り、坊主頭にしてしまった。
そしてなぜか、女性にやたらとモテた。
「隠すより、見せちまった方が楽だぜ」
あの笑顔が眩しかった。
だが、トモユキにはその勇気がなかった。
自分の薄毛を“キャラクター”にできるほど、社交的でもなければ、自信家でもない。
出社のために電車に乗ると、窓ガラスに映る自分の姿が目に入る。
頭頂を隠すように、さりげなく立ち位置を変える。
ふと、隣のサラリーマンの髪に目がいった。
白髪まじりだが、しっかりと密度のある毛並み。
「いいな…」と心の中で呟く。
自分でも情けないと思うが、視線は止まらない。
会社に着くと、美香はもうデスクについていた。
白いブラウスの袖を肘までまくり、集中した顔でキーボードを叩く。
彼女の横顔は、なぜか昨夜よりも遠く感じられる。
挨拶しようとして、一瞬ためらい、そのまま小さく会釈だけして自分の席に着いた。
午前中の仕事は数字の入力作業だったが、手は動いても頭は働かない。
美香の言葉の意味を何度も反芻し、仮説を立てては壊し続ける。
あれはただの社交辞令かもしれない。
だが、傘の中での距離感――あの一瞬の沈黙を彼女が覚えていたとしたら…?
昼休み、給湯室でインスタントコーヒーを入れていると、美香が入ってきた。
「昨日はありがとうございました。傘、本当に助かりました」
明るい笑顔。その口調は自然すぎて、余計に意味を探したくなる。
「いえ…」
それしか返せない自分が、また嫌になる。
午後は外回り。
理容店の前を通ると、大きな全身鏡が歩道側に立てかけられていた。
そこに映った自分を見て、思わず足が止まる。
湿った前髪が額に貼り付き、頭頂のボリュームが失われている。
鏡越しに、昨日のショーウィンドウの光景が蘇る。
だが今回は、背後にぼんやりとした人影があった。
振り返ると、少し離れた場所で美香がこちらを見ている――ように見えた。
しかし次の瞬間、彼女はスマホに視線を落とし、そのまま歩き去っていった。
胸の鼓動が速くなる。
あれは偶然だったのか、それとも…。
その日の帰り道、トモユキはずっと頭の中で同じ問いを繰り返していた。
湿度が髪を押しつぶすように、その疑問も彼の心を重くしていた。
――あの視線は、何だったのか?
そしてその問いは、夜になっても、眠りに落ちても、形を変えて彼を追いかけ続けた。
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