第11話 鏡の中の湿度

雨上がりの朝。
目覚めた瞬間から、空気がまとわりつくように重かった。
カーテン越しに射し込む光は白く濁り、部屋全体が湿った布で覆われているようだ。
窓を開けると、昨日の雨を吸い込んだ街が、一斉に息を吐き出すような匂いを放っていた。
アスファルトの亀裂からは雑草が、濡れた葉をぴんと伸ばしている。

その青臭い香りを胸いっぱい吸い込んだ瞬間、昨夜の記憶がよみがえる。
美香の「記憶に残りそうです」という声。
不意に、背筋に冷たいものが走る。

――どういう意味だ? なぜあんなふうに言った?

肯定にも否定にも聞こえる曖昧な言葉。
その裏に潜む意図を、彼はまだ見つけられずにいた。

洗面所へ行き、無意識に頭頂へ手をやる。
指先に触れるのは、細く柔らかくなった髪。
鏡の中の自分は、光を反射する額の上あたりに、かすかな地肌の丸みを見せている。

「……湿気は敵だな」
自嘲気味につぶやき、タオルで強く髪を拭く。
だが湿度は、髪の立ち上がりを奪うだけでなく、彼の自信も削っていく。

ドライヤーをあてながら、ふと大学時代の友人・田嶋の顔が浮かんだ。
彼は20代半ばで頭頂部が目立ち始めていたが、それを逆手に取り、坊主頭にしてしまった。
そしてなぜか、女性にやたらとモテた。
「隠すより、見せちまった方が楽だぜ」
あの笑顔が眩しかった。
だが、トモユキにはその勇気がなかった。
自分の薄毛を“キャラクター”にできるほど、社交的でもなければ、自信家でもない。

出社のために電車に乗ると、窓ガラスに映る自分の姿が目に入る。
頭頂を隠すように、さりげなく立ち位置を変える。
ふと、隣のサラリーマンの髪に目がいった。
白髪まじりだが、しっかりと密度のある毛並み。
「いいな…」と心の中で呟く。
自分でも情けないと思うが、視線は止まらない。

会社に着くと、美香はもうデスクについていた。
白いブラウスの袖を肘までまくり、集中した顔でキーボードを叩く。
彼女の横顔は、なぜか昨夜よりも遠く感じられる。
挨拶しようとして、一瞬ためらい、そのまま小さく会釈だけして自分の席に着いた。

午前中の仕事は数字の入力作業だったが、手は動いても頭は働かない。
美香の言葉の意味を何度も反芻し、仮説を立てては壊し続ける。
あれはただの社交辞令かもしれない。
だが、傘の中での距離感――あの一瞬の沈黙を彼女が覚えていたとしたら…?

昼休み、給湯室でインスタントコーヒーを入れていると、美香が入ってきた。
「昨日はありがとうございました。傘、本当に助かりました」
明るい笑顔。その口調は自然すぎて、余計に意味を探したくなる。
「いえ…」
それしか返せない自分が、また嫌になる。

午後は外回り。
理容店の前を通ると、大きな全身鏡が歩道側に立てかけられていた。
そこに映った自分を見て、思わず足が止まる。
湿った前髪が額に貼り付き、頭頂のボリュームが失われている。
鏡越しに、昨日のショーウィンドウの光景が蘇る。

だが今回は、背後にぼんやりとした人影があった。
振り返ると、少し離れた場所で美香がこちらを見ている――ように見えた。
しかし次の瞬間、彼女はスマホに視線を落とし、そのまま歩き去っていった。

胸の鼓動が速くなる。
あれは偶然だったのか、それとも…。

その日の帰り道、トモユキはずっと頭の中で同じ問いを繰り返していた。
湿度が髪を押しつぶすように、その疑問も彼の心を重くしていた。

――あの視線は、何だったのか?

そしてその問いは、夜になっても、眠りに落ちても、形を変えて彼を追いかけ続けた。