第12話 傘の記憶

翌朝、湿度は少し下がっていた。
空気は軽くなったが、胸の奥の重さは消えない。
昨日、美香とすれ違ったときの視線――あれは、やはり偶然だったのか。それとも…。

鏡の前で髪を整える。寝癖は直ったが、頭頂部はどうにもならない。
光の角度によって、地肌がじわりと透けて見える。
ブラシを持つ手が止まる。
――この距離、この角度で美香に見られていたら?
その想像だけで、首の後ろが熱くなる。

「おはようございます」
出社してすぐ、美香が声をかけてきた。
笑顔。いつものように自然で、距離を測らせない。
「おはようございます」
それ以上の言葉は出なかった。
本当は、「昨日、あの時…見てました?」と聞きたい。
けれど、そんなことを言えば自意識過剰だと思われるに決まっている。

机に向かってパソコンを立ち上げながら、ふと大学時代の雨の日の記憶がよみがえる。

――あれは二十歳の頃、秋の終わりだった。
冷たい雨が降るキャンパス。
昼休み、購買でパンを買った帰り道、雨宿りしている女子学生がいた。
肩までの栗色の髪に、雨粒がぽたり、ぽたりと落ちていく。
白いカーディガンの袖口を握りしめ、困ったように笑っていた。
「あの…傘、入りませんか?」
言葉が出た自分に驚いた。普段なら絶対に声をかけられないのに。
並んで歩いた十五分間、雨の匂いと、石畳に響く二人分の足音。
その時は髪のことなんて気にしなくてよかった。
後日、彼女から「お礼にコーヒーでも」と誘われたが、緊張しすぎて断ってしまった。
以来、連絡は途絶えた。
――あの時も、チャンスを逃した。
自分は昔から、こうだ。

午前中は外回り。
取引先のロビーで待っていると、ふと視線を感じた。
斜め前のソファに座る女性が、こちらを見ている。
慌ててポケットからスマホを取り出し、画面に視線を落とす。
しかし、その女性は美香ではなかった。
一瞬、安堵と落胆が入り混じる。
「俺、何やってんだ…」と小声でつぶやく。

昼休み、給湯室でコーヒーを入れていると、同僚の川村が入ってきた。
「昨日さ、理容店の前にいたろ?」
トモユキの心臓が跳ねた。
「え? あ、はい…通りかかって」
川村は笑いながら、「あそこ、鏡が大きいからな。俺もつい見ちゃうよ」と言った。
「…そうですね」
それだけの会話なのに、なぜか背中に汗がにじむ。
川村はカップにコーヒーを注ぎながら、ふと髪を撫でて「最近さ、前髪が減ってきてさ…」と呟いた。
その一言に、胸が妙にざわついた。
仲間意識なのか、それとも同じ悩みを抱えた者としての共鳴か。
「そうなんですか?」と返す声が、どこか温かかった。

午後、会社に戻ると、美香がコピー機の前に立っていた。
白いブラウスの背中越しに声をかける。
「昨日…あの、理容店の前で…」
美香は振り返り、少し首をかしげた。
「理容店?」
「いえ…なんでもないです」
声が勝手に逃げる。
美香はコピー用紙を抱えて去っていった。
残されたのは、機械の低い唸り音と、コピー機の排出口から漂うインクの匂いだけだった。

夕方、デスクに戻ると、引き出しの中に小さな包みがあった。
開けると、雨の日に渡した折りたたみ傘が入っていた。
銀色の持ち手が少し濡れている気がしたのは、気のせいか。
メモが一枚。「ありがとうございました。またお世話になるかもしれません」
最後の一文に、胸がざわつく。

――またお世話になる?
どういう意味だ?

帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、その文面を何度も読み返した。
傘を貸したのは一度きりだ。
「また」という言葉には、二度目を予感させる響きがある。
意識すればするほど、美香の笑顔や昨日の視線が、頭の中で再生される。

気がつけば、髪のことを忘れていた。
だが電車の窓に映る自分の姿を見た瞬間、現実が戻る。
湿気はなくても、頭頂の光沢は隠せない。

車内アナウンスが流れ、電車が滑り込む。
反射的に傘の包みをバッグに入れた。
降りるべき駅を過ぎても、心はまだ、昨日と今日の間をさまよっていた。

美香の「またお世話になるかもしれません」という言葉は、社交辞令か、それとも…。
答えは、まだ霧の向こうだった。