翌朝、湿度は少し下がっていた。
空気は軽くなったが、胸の奥の重さは消えない。
昨日、美香とすれ違ったときの視線――あれは、やはり偶然だったのか。それとも…。
鏡の前で髪を整える。寝癖は直ったが、頭頂部はどうにもならない。
光の角度によって、地肌がじわりと透けて見える。
ブラシを持つ手が止まる。
――この距離、この角度で美香に見られていたら?
その想像だけで、首の後ろが熱くなる。
「おはようございます」
出社してすぐ、美香が声をかけてきた。
笑顔。いつものように自然で、距離を測らせない。
「おはようございます」
それ以上の言葉は出なかった。
本当は、「昨日、あの時…見てました?」と聞きたい。
けれど、そんなことを言えば自意識過剰だと思われるに決まっている。
机に向かってパソコンを立ち上げながら、ふと大学時代の雨の日の記憶がよみがえる。
――あれは二十歳の頃、秋の終わりだった。
冷たい雨が降るキャンパス。
昼休み、購買でパンを買った帰り道、雨宿りしている女子学生がいた。
肩までの栗色の髪に、雨粒がぽたり、ぽたりと落ちていく。
白いカーディガンの袖口を握りしめ、困ったように笑っていた。
「あの…傘、入りませんか?」
言葉が出た自分に驚いた。普段なら絶対に声をかけられないのに。
並んで歩いた十五分間、雨の匂いと、石畳に響く二人分の足音。
その時は髪のことなんて気にしなくてよかった。
後日、彼女から「お礼にコーヒーでも」と誘われたが、緊張しすぎて断ってしまった。
以来、連絡は途絶えた。
――あの時も、チャンスを逃した。
自分は昔から、こうだ。
午前中は外回り。
取引先のロビーで待っていると、ふと視線を感じた。
斜め前のソファに座る女性が、こちらを見ている。
慌ててポケットからスマホを取り出し、画面に視線を落とす。
しかし、その女性は美香ではなかった。
一瞬、安堵と落胆が入り混じる。
「俺、何やってんだ…」と小声でつぶやく。
昼休み、給湯室でコーヒーを入れていると、同僚の川村が入ってきた。
「昨日さ、理容店の前にいたろ?」
トモユキの心臓が跳ねた。
「え? あ、はい…通りかかって」
川村は笑いながら、「あそこ、鏡が大きいからな。俺もつい見ちゃうよ」と言った。
「…そうですね」
それだけの会話なのに、なぜか背中に汗がにじむ。
川村はカップにコーヒーを注ぎながら、ふと髪を撫でて「最近さ、前髪が減ってきてさ…」と呟いた。
その一言に、胸が妙にざわついた。
仲間意識なのか、それとも同じ悩みを抱えた者としての共鳴か。
「そうなんですか?」と返す声が、どこか温かかった。
午後、会社に戻ると、美香がコピー機の前に立っていた。
白いブラウスの背中越しに声をかける。
「昨日…あの、理容店の前で…」
美香は振り返り、少し首をかしげた。
「理容店?」
「いえ…なんでもないです」
声が勝手に逃げる。
美香はコピー用紙を抱えて去っていった。
残されたのは、機械の低い唸り音と、コピー機の排出口から漂うインクの匂いだけだった。
夕方、デスクに戻ると、引き出しの中に小さな包みがあった。
開けると、雨の日に渡した折りたたみ傘が入っていた。
銀色の持ち手が少し濡れている気がしたのは、気のせいか。
メモが一枚。「ありがとうございました。またお世話になるかもしれません」
最後の一文に、胸がざわつく。
――またお世話になる?
どういう意味だ?
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、その文面を何度も読み返した。
傘を貸したのは一度きりだ。
「また」という言葉には、二度目を予感させる響きがある。
意識すればするほど、美香の笑顔や昨日の視線が、頭の中で再生される。
気がつけば、髪のことを忘れていた。
だが電車の窓に映る自分の姿を見た瞬間、現実が戻る。
湿気はなくても、頭頂の光沢は隠せない。
車内アナウンスが流れ、電車が滑り込む。
反射的に傘の包みをバッグに入れた。
降りるべき駅を過ぎても、心はまだ、昨日と今日の間をさまよっていた。
美香の「またお世話になるかもしれません」という言葉は、社交辞令か、それとも…。
答えは、まだ霧の向こうだった。
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