第13話 音のない会話

朝の通勤電車は、いつもと同じ揺れと人の波だった。
だがトモユキの心は、昨日とは違う。
バッグの中にある小さな包み――返された折りたたみ傘が、妙に重い。
あのメモ、「またお世話になるかもしれません」。
ただの社交辞令にしては、引っかかる。
気にならないようにすればするほど、その文字が浮かび上がる。

会社に着くと、美香はもう席にいた。
髪を後ろでゆるくまとめ、細い指でパソコンのキーボードを叩いている。
「おはようございます」
「おはようございます」
互いの声が交差する瞬間、視線は合わなかった。
それでも、何かの温度が空気に残る。

午前中は会議。
トモユキは議事録を取りながら、ふと横目で美香を見た。
彼女は真剣な顔でメモを取り、ときおり頷いている。
その横顔に、傘を貸したあの日の大学時代の記憶が重なった。
――もしかして、あのメモには本心が?
そんな考えが浮かんだ瞬間、上司の声が耳に刺さった。
「田島くん、そこ確認しておいて」
慌ててペンを走らせる。
机の下では、膝が小さく揺れていた。

昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、美香が入ってきた。
「昨日はすみません、急に傘なんて返しちゃって」
笑顔とともに差し出された言葉は、柔らかかった。
「いえ…全然。あれ、役に立ちました?」
「はい、とても。あの日、本当に助かりました」
その「本当に」という一語に、妙な真実味を感じる。
だが次の瞬間、彼女はカップにミルクを注ぎながら、ぽつりと言った。
「また借りちゃうかもしれませんね」
それは、昨日のメモと同じ言葉だった。

一瞬、心臓が跳ねる。
「…そうなったら、喜んで」
声が震えないよう、必死に抑えた。

午後は外回り。
取引先のオフィス街で信号待ちをしていると、向かいの歩道に美香の姿があった。
彼女は誰かと並んで歩いている。
相手は背の高い男性、スーツの襟元に赤いネクタイ。
二人は笑いながら、何かを話していた。
信号が青に変わる直前、男性が美香の肩に手を置いた。
その仕草が、トモユキの胸に小さな針を刺す。

帰社後も、あの光景が頭から離れなかった。
夕方、美香がデスクに戻ってきたとき、無意識に彼女の肩を見てしまう。
何も変わらない。
ただ、自分だけが変に意識している。

退勤間際、デスクの上に一枚の付箋が置かれていた。
「今日、お時間ありますか?」
差出人は書かれていない。
だが、丸みを帯びた文字から、美香だとすぐに分かった。

待ち合わせ場所は、会社近くのカフェ。
夕方の光が窓から差し込み、テーブルの上に柔らかな影を落としている。
「急に呼び出してすみません」
美香はカップを両手で包みながら言った。
「いえ…」
言葉が続かない。

「実は…」
そこで彼女は、一瞬ためらった。
店内のBGMが少し大きくなり、言葉が途切れる。
トモユキは身を乗り出す。
「はい?」
「…あ、やっぱり後で話します」
微笑むと、彼女は話題を変えた。

帰り道、カフェでの会話の断片が頭の中で何度も再生される。
――実は、何を言おうとした?
そして、なぜやめた?

駅の階段を降りる途中、背後から誰かの視線を感じた。
振り返ると、人混みの中に背の高い男性の姿が一瞬見えた。
赤いネクタイ。
だが次の瞬間、彼は人波に消えた。

傘の包みを握る手に、じわりと汗がにじむ。
美香、そしてあの男。
二人の間にある何かが、静かに、しかし確実にトモユキの世界を揺らし始めていた。