第14話 赤いネクタイの影

翌朝、出社途中のトモユキは、改札を抜けた瞬間に胸の奥がざわついた。
湿った秋の空気の中で、ひときわ鮮やかな赤が視界の端に揺れた気がしたのだ。
それは昨日、カフェの外で一瞬だけ目にしたあの赤いネクタイ――。

振り返る。
しかしそこには、傘を差して足早に歩く人々の群れしかいない。
雨は降っていないのに、空はどんよりと曇っており、駅前のビル群の窓ガラスが鈍く光を反射していた。
気のせいかもしれない。
そう思って歩き出すが、胸のざわめきは消えなかった。

会社に着くと、美香はまだ来ていなかった。
デスクに腰を下ろすと、昨日の付箋が脳裏に浮かぶ。
“今日、お時間ありますか?”
あの一文が呼び出したのは、カフェでの短い沈黙と、美香が言いかけてやめた「実は…」だった。
――あれは何だったのか?
「単なる雑談のつもりだった」と片付けるには、彼女の瞳の奥に確かに影があった。

午前中の会議。
集中して資料を見ていたはずが、不意に扉が開き、美香が入ってくる。
淡いベージュのブラウス、軽やかにまとめられた髪。
一瞬、その後ろから赤い色が覗いたように見え、心臓が跳ねる。
しかし、それは別の同僚が抱えていた赤いファイルだった。
自分でも可笑しいほど、神経が過敏になっている。

休憩時間、給湯室に入ると美香が一人でコーヒーを淹れていた。
湯気とともに漂う香ばしい香り。
「昨日は…何を言おうとしたんですか?」
思い切って問いかけると、美香はスプーンを持ったまま、一瞬だけ動きを止めた。
「…タイミングが悪かっただけです」
「タイミング?」
「ええ。あの店で話すのは、少し…落ち着かなくて」
微笑はあるが、瞳の奥は深く閉ざされている。
その笑顔は、何かを隠すために練習されたようにも見えた。

午後、外回りで訪れた高層ビルのロビー。
エスカレーターを上がる途中、下りの側で赤いネクタイが揺れた。
昨日の男だ。
背が高く、無表情で、携帯を耳に当てている。
視線が合った――気がした。
だが男は何事もなかったかのように通り過ぎていった。
その一瞬、背筋に冷たいものが走る。

夕方、オフィスに戻っても、あの男の姿が脳裏から離れない。
“気のせい”と片付けられないのは、確かに視線を感じたからだ。
人混みの中で、自分だけを見ていたような――。

夜。
残業を終えて会社を出ると、街は少し湿った風に包まれていた。
街灯の下を歩くたび、影が自分の足元から伸びたり縮んだりする。
細い路地に差しかかったとき、またあの気配を感じた。
振り返る。
十数メートル後ろに、赤いネクタイの男が立っている。
街灯が斜めから照らし、その顔は半分影になっていた。
表情は読み取れない。
トモユキが一歩踏み出すと、男はゆっくりと別の路地へ消えた。
足音は、なぜか一度も聞こえなかった。

家に帰ると、スマホに通知があった。
差出人は美香。
「明日、少しお話しできますか?」
短い一文の後に、見慣れないスタンプがついている。
赤い傘を持ったキャラクターが、笑顔でこちらを見上げているスタンプだった。

偶然か?
それとも――。
胸の中で、傘とネクタイ、そして赤という色が、ひとつの輪郭を形作ろうとしていた。
ただ、その中心に何があるのかは、まだ霧の中だった。

窓の外では、秋風が強まり、電線が低く唸っていた。