翌日、トモユキは出社する前から妙な胸騒ぎを感じていた。
秋の朝らしい、澄んだ空気。
なのに、足取りは重い。
昨夜スマホに届いた美香からのメッセージ――「明日、少しお話しできますか?」――が頭から離れない。
赤い傘のキャラクターがこちらを見ているあのスタンプも。
オフィスに入ると、既に美香がデスクに座っていた。
昨日より少し疲れた表情だが、笑顔を見せる。
「おはようございます」
「お、おはよう…」
短い挨拶の後、互いに何も言わず、それぞれの仕事に没頭するふりをした。
だがトモユキの耳は、美香がキーボードを打つ音や、椅子がわずかに軋む音まで拾ってしまう。
午前中の打ち合わせが終わると、美香がそっと近づいてきた。
「お昼、外に出ませんか?」
その声は、ごく自然に聞こえる。
だが、わずかに震えているのをトモユキは聞き逃さなかった。
駅前の小さな洋食屋に入ると、店内はランチタイムで賑わっていた。
窓際の席に座り、注文を終えると、美香は一度深呼吸をした。
「昨日のこと…なんですけど」
――来た。
トモユキは心臓の鼓動が強くなるのを感じた。
「実は…」
美香の唇が動き始めた、その瞬間だった。
店の入口のベルが鳴った。
反射的にそちらを見ると、赤いネクタイが目に飛び込んできた。
昨日の男だ。
無表情のまま、店内をゆっくりと見回す。
その視線が、わずかにこちらをかすめた気がした。
「…どうかしました?」
美香が不安そうに尋ねる。
「いや…なんでもない」
トモユキは慌てて視線を外したが、背中に冷たい汗が流れる。
男は奥の席に腰を下ろし、コートを脱いだ。
客のふりをしているのかもしれない。
だがその存在感は、空気を一段重くするようだった。
料理が運ばれてきても、美香の話は進まない。
彼女はフォークを持ったまま、何度も口を開きかけては閉じる。
視線を伏せるたび、長い睫毛がわずかに震えている。
「美香さん…」
トモユキが声をかけると、美香はようやく小さくうなずいた。
「トモユキさんにだけは…話そうと思って」
その時、背後で椅子が引かれる音がした。
赤いネクタイの男が立ち上がり、ゆっくりと出口へ向かって歩き出す。
通りすがりに、ほんの一瞬だけトモユキを見た。
目が合った瞬間、息が詰まる。
あの瞳には、感情らしきものがほとんどなかった。
ベルが再び鳴り、男の姿は街の雑踏に消えた。
残された空気は、妙に静かで、重い。
「さっきの人…知り合いですか?」
美香の声はかすかに震えている。
「いや…見たことはあるけど…」
答えながら、トモユキの脳裏には昨日、一昨日と続けて見かけた男の姿が重なっていた。
偶然にしては、あまりに回数が多すぎる。
食事を終え、店を出ると、街は曇り空の下で灰色に沈んでいた。
ビルの谷間を抜ける風が、薄くなった前髪をそっと揺らす。
美香は歩きながら、何度も周囲を振り返った。
「…今日は、もう少ししてから話します」
「どうして?」
「…外だと、落ち着かないんです」
それ以上は語らなかった。
午後の仕事中も、美香は何度もスマホを覗き込み、何かを打ちかけては消していた。
時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる。
夕方、彼女は小さくため息をつくと、トモユキにだけ聞こえる声で言った。
「今夜、連絡します」
夜、自宅の部屋。
外からは秋の風に揺れる木の葉の音が聞こえる。
スマホが震えた。
美香からのメッセージだ。
「やっぱり直接会って話したい。明日、終業後に…」
そこまで打たれた文章の下に、また赤い傘のスタンプがあった。
画面を見つめるうちに、背筋がぞわりとした。
その時、窓の外の街灯の下を、赤いネクタイが一瞬だけ横切ったように見えた。
目の錯覚かもしれない。
しかし、心臓はもう、疑うことをやめていた。
――あの視線は、確かにこちらを知っている。
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