翌日、トモユキは出社する道中、何度も振り返った。
昨日の夜に見た、あの街灯の下の赤いネクタイの影――あれが本当に現実だったのか、確かめるように。
秋晴れの朝なのに、空気はどこか湿り気を帯びているように感じられた。
オフィスに着くと、美香はまだ来ていなかった。
デスクに座り、パソコンを立ち上げても、集中できない。
周囲の会話や電話の音が、どれも遠くから聞こえてくる。
やがて、美香がドアを開けて入ってきた。
彼女はいつもより少し厚手のコートを着ていて、目の下にはうっすらと影があった。
「おはようございます」
「…おはよう」
言葉は交わしたが、互いに目を合わせる時間は短かった。
昨日の続き――その一言を切り出す勇気は、まだトモユキの口元に集まってこない。
昼休み、美香が近づいてきた。
「…今日、終業後に駅前で。あの…人目の少ないところがいいです」
その小声は、ほとんど風の音に消えそうなほどだった。
うなずいた瞬間、背後でコピー機のトレイがガシャリと落ちた。
振り返ると、総務課の中年男性が慌てて用紙を拾っている。
――何でもない偶然だ、と自分に言い聞かせた。
夕方、ビルを出ると、美香は既に駅前のベンチに座っていた。
イルミネーションが点き始めた街は、どこか浮ついた雰囲気を帯びている。
だが美香の表情は、光に照らされても明るくならなかった。
「ここじゃ…ちょっと落ち着かないですね」
美香は立ち上がり、駅から少し離れた裏道へ歩き出した。
人通りの少ない、小さな公園のベンチに腰を下ろす。
足元には落ち葉が積もり、夜風がさらさらとそれを転がしていく。
「昨日の人…覚えてますか?」
美香の声は、予想よりも低かった。
「赤いネクタイの男のこと?」
彼女は小さく頷いた。
「…あの人、私の元…いや、知り合いです」
「知り合い?」
「でも、もう何年も会っていませんでした。本当は、もう会うことはないはずだったんです」
その言葉に、トモユキの背筋が強張る。
「じゃあ、なんで…」
「わかりません。ただ…見られている気がするんです。あの日から」
沈黙が落ちた。
公園の外を、酔った会社員たちが笑いながら通り過ぎる声が遠くに響く。
「私、あなたにこんな話をする資格があるかわからない。でも…昨日から、あなたも巻き込んでしまった気がして」
美香の手が、ベンチの上でかすかに震えている。
その手を握るべきかどうか、トモユキは一瞬迷った。
だが、指先がほんの少し触れただけで、美香は小さく身を引いた。
「…怖いんです。あの人が、なぜ今になって現れたのか。何を見ているのか」
「警察に相談したほうが」
「証拠がないんです。ただ…視線だけ。私が神経質なだけかもしれない」
その時、公園の入口に人影が揺れた。
街灯の光の中に、赤い色が一瞬だけ浮かぶ。
赤いネクタイ。
男は立ち止まり、こちらをじっと見ている――ような気がした。
トモユキは立ち上がった。
だが、次の瞬間には男の姿は消えていた。
周囲を見回しても、足音すら聞こえない。
美香は顔を伏せたまま、小さく呟いた。
「…ほら、やっぱり」
二人は言葉を失ったまま、公園を出た。
駅前まで戻る道すがら、トモユキは何度も振り返った。
けれども、赤いネクタイの影はどこにもなかった。
別れ際、美香は短く言った。
「…明日、少し早く来てくれますか。オフィスじゃないところで、話したいことがあるんです」
家に帰り、窓から夜の街を眺める。
遠くのビルの屋上に、一瞬、赤い点が見えた気がした。
ネオンか、信号機か、それとも――。
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