1. 朝の予感
翌朝、鏡に向かったトモユキは、昨夜からずっと気にしている頭頂部を入念にチェックした。
「大丈夫、目立たない」
そう自分に言い聞かせるものの、心は落ち着かなかった。キャップを被るわけにもいかない。今日は社内プレゼンがある。
彼はワックスを手に取り、薄い部分を隠すように撫でつけた。だが撫でれば撫でるほど、髪の薄さが逆に浮き彫りになる気がして、最後は諦めたように整えただけで出かけた。
通勤電車の窓に映る自分の頭は、光の加減で濃く見えたり薄く見えたりした。その揺らぎが、そのまま心の不安定さを象徴しているように思えた。
2. 職場のガラス
午前中の仕事を終え、昼休みに同僚たちと食堂へ向かう途中、トモユキは廊下にある大きなガラス壁の前を通った。
そこに映る自分の後ろ姿を、ふと目にしてしまう。
“やっぱり薄い…”
ほんの一瞬だが、息を呑む。
さらに横にいた同僚が小声で言った。
「最近、疲れてない? なんかやつれて見えるよ」
悪気はない言葉だった。しかしトモユキには“髪が薄くなってる”と指摘されたように響いた。
笑ってごまかしながら歩いたが、心臓の鼓動は速まっていた。
3. プレゼンの恐怖
午後、いよいよ社内プレゼンが始まった。
会議室の前方に立ち、スクリーンに映る資料を指差しながら話す。
だが、彼の意識は聴衆の視線ではなく、自分の頭頂に集中していた。
「後ろの席からは、どう見えてるんだろう」
「光が当たって、透けて見えてないだろうか」
一度そう思い始めると、言葉が詰まりそうになった。
説明の途中で資料をめくる手が震える。
会議室の窓ガラスに映る自分のシルエットにまで目が行き、薄毛の形を確認してしまう。
最後まで話し切ったものの、拍手や反応が耳に届かない。
頭の中は“見られていたのか”という問いでいっぱいだった。
4. 休憩室での出来事
プレゼン後、同僚の佐伯が休憩室で声をかけてきた。
「緊張してたな。でも内容は良かったよ」
トモユキは安堵しかけたが、次の言葉に心が凍る。
「そういえば、お前って帽子とか似合いそうだよな。今度一緒にアウトドア行こうぜ」
――帽子。
なぜわざわざ帽子の話を?
“もしかして、髪を隠したほうがいいってことなのか?”
笑って答えるフリをしながら、心の中ではその言葉が何度も反響した。
5. 夜の街で
仕事帰り、トモユキはふとショーウィンドウに映る自分を見た。
頭頂部に光が反射して、他人事のように見えた。
立ち止まってじっと見つめていると、背後から視線を感じた。
振り返ると、そこにはいなかったはずの赤いネクタイの男が、遠くのビル影に立っていた。
その目はやはり、自分の頭頂を見ているように感じた。
男が何を意味しているのかはわからない。
だが確かなのは、トモユキが薄毛を気にする限り、その視線から逃れられないということだった。
そして彼は思った。
“もしかして、この男は俺自身なのかもしれない”
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