夜の雨は、街全体をやわらかい膜で覆っているように感じられた。会社帰りのトモユキは、傘を持っていなかった。降るかどうか迷った結果、空を甘く見て、鞄の中に折り畳み傘を忍ばせることすら忘れてしまったのだ。
「……まあ、濡れてもいいか」
だが、本音では良くなかった。濡れること自体よりも、濡れた髪がぺたりと額に張り付き、地肌が余計に目立ってしまうことの方が、彼にとっては大きな問題だった。
街灯の光が、濡れたアスファルトの上で散り、ネオンの色を滲ませていた。雨は強すぎず、弱すぎず、ちょうど人を考えごとに誘い込むのに都合のいいリズムで降っていた。
■
会社では、また一つ嫌な出来事があった。昼休みに、同僚たちが集まって野球の話をしている横で、誰かがふと口にした。
「そういえばさ、〇〇部長、最近めっちゃ髪薄くなったよな」
その場にいた数人が笑い混じりに相槌を打つ。
「いやー、でもまだカツラとかじゃないからいいじゃん」
「カツラだったら逆に気づきやすいしな」
くだらない笑い声。トモユキは心臓を軽く握られるような感覚に襲われ、弁当を食べる手が止まった。誰も彼の方を見ていないはずなのに、自分の頭頂部に全員の視線が刺さっているように思えてならなかった。
箸を置き、水を飲むふりをして俯いた。笑いの渦から逃れるように。
「……俺も、そう見られてるのかもしれない」
自分で自分に突き刺すような呟きが、喉の奥で震えた。
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その日の帰り、彼はわざと遠回りして帰路についた。昔通っていた小さな書店が、まだ営業しているのを思い出したからだ。
「本でも見て気を紛らわせよう」
そう思って店に入ったものの、結局選んだのは自己啓発書でもビジネス書でもなく、髪に関する書籍だった。
『30代からの薄毛対策』
『食生活と頭皮ケア』
そんな棚があること自体、トモユキには衝撃だった。まるで自分を見透かされたかのような気がして、数冊を手に取り、レジへ持っていった。
店員は若い女性だった。彼女が特に何も気にしていないと分かっていても、心の中には羞恥の火が点っていた。
「……袋いりますか?」
「あ、はい……お願いします」
短いやりとりの間にも、「この人、髪に悩んでるんだ」と思われている気がしてならない。
店を出てから、雨音が逆に心を落ち着かせてくれるように思えた。
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帰宅後、彼は部屋着に着替えると、買ってきた本を開いた。
そこには、育毛剤や食生活の改善、運動や睡眠の質といったことが書かれていた。
ページをめくるうちに、ふと父親のことを思い出した。
――小学生の頃、父の頭頂部はすでにかなり薄くなっていた。朝、鏡の前で必死に髪を撫でつけていた姿。母が「もう無理に隠さなくてもいいんじゃない?」と笑いながら言ったとき、父は黙り込んだまま新聞を手にした。
その背中を見ていた少年の自分は、「大人になるってこういうことなんだ」と無意識に刻みつけてしまった。
「俺も、同じ道を歩いてるのか」
そう思うと胸が締めつけられるように苦しくなった。
■
その夜、机にノートを開き、トモユキは初めて「薄毛日記」を書いてみた。
今日、会社であったこと。誰も自分を笑っていないのに、笑われている気がしてしまったこと。濡れた髪で駅の階段を上ったとき、背後に人がいるだけで地肌が透けて見えていないか気になったこと。
「こんな小さなことばかり気にして、俺は一体なにをやってるんだろう」
そう書いた後で、ペン先を止め、深く息を吐いた。
日記を書きながら、不意に雨音が心地よいリズムに変わっていった。まるで自分の頭を優しく撫でる音のように。
「雨が、俺の味方をしてくれてるみたいだな」
独り言が、部屋の中で小さく響いた。
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その翌朝、雨はすっかり上がっていた。通勤途中の電車の窓に映る自分の姿を、彼はじっと見つめた。
地肌の透けを確認しながらも、昨日より少しだけ気持ちが軽い。日記に書いたからかもしれない。本を読んだからかもしれない。
「俺は、まだやれることがある」
そう小さく心の中で呟き、彼は会社へと向かった。
雨音が刻んだリズムは、まだ身体の奥に残っていた。
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