会社帰りの電車。トモユキは、バッグの中の小さな紙を何度も指でなぞっていた。
それは駅前のスポーツジムの体験チケット。先輩の佐伯と約束したあの日から、ずっと気になっていたが、ようやく今日、思い切ってジムに足を踏み入れる決意をしたのだ。
「血行をよくすれば髪にもいいって言うしな……」
口の中でつぶやきながらも、心の奥底では別の声が聞こえていた。
──どうせ意味ないんじゃないか。
──育毛剤だって結果は出てないだろう。
そういう声が消えることはない。しかし今日は、その声を押しのける力がほんの少しあった。
■
ジムの入口をくぐると、明るい音楽と機械の規則的な音が耳を打った。ランニングマシンの上で走る人々、鏡の前でバーベルを持ち上げる人々。彼らの額には汗が光り、その姿はどこか別世界の住人のように見えた。
「体験の方ですか?」
受付の女性が笑顔で声をかけてきた。
「は、はい」
緊張で声が裏返りそうになりながら答える。こういう場はどうしても苦手だ。
ロッカールームに案内され、スポーツウェアに着替えると、すぐに不安が込み上げてきた。
髪だ。シャワー後の濡れた頭、ランニングで汗をかいたときの頭皮。照明に照らされたら、きっと透けて見えるだろう。
ロッカーの鏡に映る自分を見つめながら、トモユキは深呼吸した。
「俺は運動しに来たんだ。髪を隠すためじゃない」
そう言い聞かせても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
■
最初はランニングマシンに乗った。隣には、偶然にも佐伯がいた。
「お、来たな。よし、一緒に走ろう」
「は、はい」
ベルトが動き出し、足を動かす。数分で息が乱れ、汗が額を伝った。
鏡の向こうには、走る自分の姿が映っている。髪が額に張りつき、いつもより薄く見える気がして胸がざわめいた。だが同時に、確かに心拍が上がり、血が巡っている感覚もあった。
「トモユキ、無理すんなよ。でもいい顔してるぞ」
佐伯の声に、少しだけ救われた。
■
トレーニングを終えると、体は重く、同時に心地よい疲労感が広がった。
シャワールームで髪を濡らした瞬間、地肌が鮮明に露わになるのを見て、心臓が沈んだ。
──やっぱりだ。
──運動しても、髪は戻らない。
思考が負の連鎖に陥りそうになったとき、ふと隣から声がした。
「おつかれさま。初めてにしては頑張ったな」
声の主は、ジムのスタッフの男性だった。年齢は40代半ばだろうか。頭頂部はしっかり薄くなっていたが、筋肉質で姿勢が良く、堂々としていた。
「俺も最初は髪を気にしてたんだ。でも運動して、体力がついて、自分に自信が出てきたら、不思議と気にならなくなった。もちろん、完全に忘れることはないけどな」
そう言って笑うその顔には、作り物ではない自信がにじんでいた。
トモユキは何も言えず、ただ深く頷いた。
■
夜、自宅の鏡の前に立ち、髪を乾かしながら思い返す。
佐伯の励まし。スタッフの言葉。ランニング中に感じた心拍と血の流れ。
「俺は、少しは変われるのかもしれない」
そう呟くと、少しだけ未来が明るく思えた。
だが、そのとき。
机の上に置いたスマホが光った。
画面には「美香」からのメッセージ。
──「今日、偶然見たんだけど……あなた、ジムにいた?」
心臓が強く打った。
どうして彼女が、あのジムに? 何を見たのだろう?
汗に濡れた頭? それとも必死で走るみっともない姿?
答えを知るのが怖くて、しばらくスマホを手に取れなかった。
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