第22話 美香の視線

スマホの画面に浮かぶ一文──「今日、偶然見たんだけど……あなた、ジムにいた?」

心臓が跳ね上がった。手のひらが汗ばみ、スマホを落としそうになった。
あの夜の汗に濡れた自分の姿。額に張りついた髪、照明で透けて見えた頭皮。美香は、あれを見てしまったのか。

「やばい……」

声にならない声が漏れる。返信しようと文字を打ちかけては消し、また打ちかけては消す。
「はい、いました」
「なんで知ってるんですか?」
「偶然ですか?」
──どれも正解じゃない気がした。

結局、「……そうです」とだけ打ち込み、送信ボタンを押した。

すぐに既読がついたが、返事は来ない。
その数秒が、永遠に思えるほど長かった。

翌日。職場で美香と顔を合わせる瞬間が訪れた。
いつも通りコピー機の前で資料を整理している彼女。その横顔を見ただけで、胸がぎゅっと縮む。
彼女の目がこちらに向いた。
「おはようございます」
「お、おはようございます」

声は交わしたが、その後の数秒が耐えがたかった。彼女の瞳に映る自分が、汗に濡れた薄毛の姿に重なっている気がした。

昼休み、美香が声をかけてきた。
「昨日のジム、偶然ですね」
「は、はい……」
「私、あそこでヨガのクラスを受けてるんです。週に二回」

思わず硬直した。美香が同じジムに通っている? しかも、定期的に?

「へえ……そうなんですか」
「だから、昨日見かけて……。なんか頑張って走ってたから」

その「頑張って」の言葉が、誉め言葉なのか、哀れみなのか、判断できなかった。
美香はにっこりと笑って席に戻ったが、トモユキの心は乱れ続けていた。

夜、ジムに再び足を運んだ。
昨日と同じランニングマシンの前に立つ。だが、今日は違う緊張感に支配されていた。

「もし、また美香に見られたら……」
髪の透け具合を気にして、走るどころではない。鏡に映る自分の頭頂を確認しては、足がもつれる。

──そのとき、肩を叩かれた。
「お、来たか。続いてるじゃん」

佐伯だった。
「はい……でも、なんか落ち着かなくて」
「分かる。俺も最初はそうだった。でもさ、周りは誰もお前の頭なんて気にしてねえよ」
「でも……」
「気にしてんのは自分だけだ。俺らの敵は鏡の中の自分だよ」

佐伯の言葉に、ハッとした。
本当にそうなのかもしれない。
だが、その瞬間、視線を感じた。

振り返ると、ガラス張りのヨガスタジオの中に、美香の姿があった。
ポーズを取る合間に、確かにこちらを見た気がした。

──あれは偶然か?
──それとも、本当に自分を見ていたのか?

心拍数は走りのせいではなく、不安と緊張で上がっていった。

シャワーを浴びた後、ロッカールームで髪をタオルで拭きながら、トモユキは思い返していた。
美香の「頑張って」という言葉。
ヨガの最中に感じた視線。

どちらも錯覚かもしれない。だが、もし本当に見られていたとしたら──彼女は何を思ったのか。

スマホを取り出す。
送信画面を開き、指が震える。

──「昨日、俺のこと見てました?」
──いや、そんな直接は聞けない。
──「ジムでよく会うかもしれませんね」
それも重い気がする。

考えすぎて、結局何も送れなかった。

布団に潜り込み、天井を見つめる。
もし、彼女が髪を気にする自分を見抜いていたら?
もし、笑われていたら?
それとも──励まそうとしていたのか?

答えは分からない。

だが一つだけ確かなことがあった。
「美香の視線」を意識してしまった自分の心臓は、今もまだ高鳴り続けている。

そして、眠りに落ちる直前、ふと頭に浮かんだ。
──あの視線の温度は、冷たいものだったのか?
──それとも、温かいものだったのか?

謎だけを残して、夜は静かに過ぎていった。