翌日の朝、トモユキは、昨夜のあの視線を何度も思い返していた。
窓の外を見上げていた赤いネクタイの影。
あれが幻覚だったのか、それとも現実だったのか。
眠れぬ夜を過ごしたせいで、目の下にうっすらと影ができている。
出勤すると、デスクの上に一枚の付箋が置かれていた。
「昼休み、屋上でお話しできますか? ― 美香」
胸がかすかに高鳴る。
“相談したいこと”という昨日のメッセージ。それが今日、明らかになるのか。
午前中の仕事はまるで上の空だった。
キーボードの音だけがやけに大きく響く。
心は、昼の屋上にすでに行ってしまっていた。
昼休み。
屋上の扉を開けると、秋の風が吹き抜けた。
美香はフェンスのそばに立ち、両手で紙コップを包んでいた。
「来てくれて、ありがとうございます」
「いえ……美香さんが相談って言うから、ちょっと気になって」
美香は少し俯き、風に髪が揺れた。
その髪の光沢を見て、トモユキはほんの少しだけ自分の頭に触れてしまう。
――なぜ、自分はいつもこうやって比べてしまうのだろう。
「実は……」
美香が言葉を選ぶように口を開いた。
「最近、うちの弟が……髪のことで悩んでるんです。まだ二十代なのに、すごく気にしてて。家族には何も言わないけど、母から聞いたんです。」
一瞬、風の音が止まったように感じた。
まるで自分の話をされているようだった。
「病院に行く勇気も出ないし、周りには冗談を言われてばかりで。……私、見てられなくて。」
美香の声が、少し震えていた。
「トモユキさん、以前言ってましたよね。『髪のことで、悩んでた時期があった』って。」
トモユキは、無意識に視線を逸らした。
――言った。あの飲み会のとき、少しだけ。
「ええ……でも、俺なんて大したことは。今も正直、克服できてるとは言えませんよ。」
「それでも、今こうして普通に話して、笑ってる。弟に、そういう未来があることを伝えたいんです。」
美香はそう言って、まっすぐにトモユキを見つめた。
その目は、同情ではなかった。
まるで彼の中にある“まだ知らない強さ”を信じているような目だった。
「……俺にできることがあるでしょうか。」
「あります。弟があなたみたいな人に会えば、少しは救われるかもしれません。」
言葉を失った。
救われる――そんなふうに思われたのは、生まれて初めてかもしれない。
トモユキは深呼吸をして、遠くの空を見上げた。
雲の切れ間から、一筋の光が差していた。
午後、席に戻ってからも、心はざわついていた。
美香の弟。
それは、過去の自分と重なる存在だった。
そして彼女が見せたあのまっすぐな瞳。
――もしかしたら、自分にもまだ誰かの役に立てる瞬間があるのかもしれない。
そう思うと、少しだけ前を向ける気がした。
退勤後、トモユキは家に帰らず、久しぶりに繁華街を歩いた。
ショーウィンドウに映る自分。
風が吹くたびに前髪がわずかに乱れる。
そのたびに、心臓の奥が少しだけ痛む。
でも今日は、髪を直さなかった。
ただ、映る自分を見つめた。
「……堂々としてみようか。」
斎藤の言葉がふっと蘇る。
その瞬間、背後を何かが通り過ぎた気がした。
ガラスに映る赤い影。
反射的に振り向いたが、そこには人混れしかいない。
ただ、遠くの信号の下で、赤いネクタイがちらりと揺れた。
――また、あの男だ。
トモユキの喉が渇く。
偶然か?
それとも、美香の話と関係があるのか?
彼はしばらくその場を動けずにいた。
通り過ぎる人々の髪が、まるで波のように揺れていた。
光を反射する黒髪、金髪、白髪。
そのすべての中で、自分の頭だけが違う世界に属している気がした。
「でも、もう隠さない。」
小さく呟くと、胸の奥にほんの少しだけ熱が灯った。
それが勇気なのか、怒りなのか、自分でも分からない。
けれど、確かに何かが変わり始めていた。
その夜、スマホに一件の通知が届いた。
“新しいメッセージが届きました。”
送信者は、美香の弟――「ユウタ」だった。
「はじめまして。姉から聞きました。少しだけ、話を聞いてもらえませんか?」
画面の文字がゆっくりと滲んで見えた。
トモユキは、深く息を吸い込んだ。
外では、風がまた強く吹き始めていた。
その音は、どこかで誰かが髪を撫でているように優しく響いていた。
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