その夜、トモユキはなかなか眠れなかった。
枕元に置いたスマートフォンの画面が、何度も勝手に光っては消える。通知など来ていないのに、まるで誰かが「まだ起きてるか?」と呼びかけているようだった。
ユウタの笑顔が、頭の奥で静かに反芻されていた。
──風を感じました。
昼間、あの少年がそう言った瞬間の表情が、目に焼きついて離れない。
恐怖と解放が入り混じったような、あの微妙な顔。
自分も、あの年の頃にあんな顔をしていたのだろうか。
トモユキは寝返りを打ち、天井を見つめた。
風を感じるということ。それは、鎧を脱ぐということだ。
つまり、恐れに身を晒すということでもある。
彼の胸の奥で、何かが小さく疼いた。
──俺は、いつから風を感じなくなったんだろう。
鏡台の上に置かれたブラシ、整髪料、育毛トニックのボトル。
それらが、ぼんやりとした闇の中で光を反射していた。
まるで自分の弱さの証拠品のように、そこに並んでいる。
彼は起き上がり、裸足のまま洗面所へ向かった。
鏡の前に立つ。
電灯をつけると、白い光が彼の顔を切り取った。
頭頂部の薄い部分に、ため息がこぼれる。
何度も見慣れたはずの光景なのに、今夜は違って見えた。
そこにいるのは、自分ではなく――まるで少年のようだった。
「……お前か」
思わず声が漏れた。
鏡の中の自分が、ゆっくりとこちらを見つめ返す。
薄毛を気にし、帽子で隠し、笑われるのが怖かった少年。
彼は、今もそこにいた。
──お前、ずっとそこにいたのか。
心の中でそうつぶやくと、胸が熱くなった。
消そうとしても消えなかった恐怖。
見ないふりをしてきた劣等感。
それらは消えることなく、静かに息づいていたのだ。
ふと、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、美香からのメッセージだった。
「ユウタ、あのあと鏡を見て、少し笑ってました。本当にありがとうございました。」
その一文が、胸の奥に温かく染みていった。
彼はスマートフォンを伏せ、鏡に向かって微笑んだ。
「……俺も、鏡を見て笑えるようにならなきゃな」
電気を消し、闇の中で再びベッドに戻った。
外では夜風が静かに吹いていた。
窓の隙間から入ってくるその風が、肌に触れた瞬間、トモユキの心は少しだけ軽くなった。
ユウタの「風を感じました」という言葉が、今は自分の胸の中でも響いていた。
──風は、恐怖の向こう側にしか吹かないのかもしれない。
彼は目を閉じた。
しかし、眠りの境界で、ふと奇妙な感覚に気づいた。
誰かが、ベランダの外に立っているような気配。
まるでガラス越しに、彼の頭を見つめているかのような……。
恐る恐る目を開ける。
カーテンの隙間から、街灯の光が差し込んでいる。
そこには誰もいない――はずだった。
だが、その光の中に、人影のようなものが一瞬、動いた。
トモユキは立ち上がり、カーテンを開けた。
夜の街は静まり返り、遠くで電車の音が響いていた。
空には雲が流れ、月がその隙間からわずかに顔を出している。
──気のせいか。
そう思ってベランダに出ようとしたとき、視線を感じた。
下の階、通りに面した暗がりに、ひとりの少年が立っていた。
帽子をかぶっていない。
短い髪を夜風に揺らし、上を見ている。
ユウタだった。
「……ユウタ?」
思わず声を上げた。
しかし、少年は何も言わず、ただ微笑んだ。
その笑みは、どこか現実味を欠いていた。
次の瞬間、彼の姿は闇に溶けるように消えた。
心臓が速く打ち始めた。
夢か、幻か、それとも――。
翌朝、目を覚ますと、ベランダの柵に一枚のメモが挟まっていた。
風に揺れ、かすかに擦れた文字が読める。
「風は感じましたか?」
それは、確かにユウタの筆跡だった。
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