土曜の昼下がり。
トモユキは、3ヶ月ぶりに美容室に電話をかけた。
電話をかけることそのものが、すでに勇気の要る行為だった。
なぜなら、その声の向こうにいる誰かが、“俺の髪の変化”に気づいているかもしれないからだ。
「あ、もしもし、トモユキと申します。今日、空いてますか?」
「はい!◯時からカットだけで大丈夫ですか?」
「……はい、カットだけで」
トリートメントやカラーという選択肢を避けたのは、自然なことだった。
そう、カット“だけ”。
それ以上の施術に耐えうるほど、彼にはもう毛量が残っていない気がしたのだ。
美容室のドアをくぐった瞬間、冷房の風が額に直撃した。
前髪のすき間から、頭皮に直接。
「いらっしゃいませー! お久しぶりですね」
いつもの美容師――ユウタが、明るく迎える。笑顔が眩しい。敵意は一切ない。だが、そこにこそ恐ろしさがあった。
“何かを悟っても、それを口にしない”プロの笑顔。
カット台に座り、クロスをかけられ、鏡と向き合う。
この瞬間が、トモユキは一番つらい。
“逃げ場のない鏡”が、自分の全体像を曝け出す。
自分では見ないふりをしていた後頭部の薄さ、つむじの開き具合、耳上の地肌――
それらを、客観的な光が、ことごとくあぶり出すのだ。
「前回より、ちょっと髪伸びてますね。どんな感じにします?」
ユウタが、いつも通りの調子で聞いてくる。
トモユキはしばらく黙ってから言った。
「……全体的に、短めで。軽くなってきたから、重さを出したいというか……」
「了解です。じゃあ、量感は残しつつ、形は整えますね」
“量感を残す”
その言葉が、心に引っかかった。
今ある毛を“残す”。すでに“残り少ない”前提で話されているように思えた。
だがもちろん、ユウタは何も悪くない。
むしろ気を使っているのだ。だからこそ、苦しかった。
ハサミの音が静かに響く。
耳元で“シャキ、シャキ”と繰り返されるたび、何かが削がれていくような気がした。
髪だけでなく、自尊心のようなものも。
ふと、ユウタが言った。
「最近、髪の悩みとかありますか?」
その言葉が、刃物より鋭く感じられた。
トモユキは一瞬、反応に迷った。
「……いや、まあ、ちょっとボリュームが出にくいっていうか……」
「そうですよね。季節の変わり目は抜け毛も増えますし、皆さんそうです」
“皆さん”――。
それはつまり、「あなただけじゃない」という慰めだ。
でも、そんな慰めを必要としている自分を、トモユキは一番許せなかった。
「いまはボリュームアップのパーマもあるんで、よかったら次回提案しますね」
そう言いながらユウタは、何気なく前髪を指先で整えた。
そのとき、トモユキの視界の端に、地肌がはっきりと映った。
この距離、この角度、この照明――逃げられなかった。
鏡の中の自分は、どこか別人に見えた。
前髪の間から見える額。ハサミで整えられるたび、どんどん“軽く”なっていく頭部。
まるで、髪型ではなく“頭皮の輪郭”をデザインしているようだった。
「最近は、坊主にする人も多いですよ。清潔感あるし、スーツにも合いますし」
ユウタの何気ない言葉だった。
だが、それはトモユキにとって、間接的な死刑宣告にも思えた。
「坊主=終わりのスタイル」
そう、心のどこかで決めつけていた。
つまり、美容師がその話をするということは、もう“逃げ切れない”と判断されたということではないか?
「……そうですね、考えておきます」
喉の奥でつぶれた声が漏れた。
だが本当は、そう言った自分にいちばん傷ついていた。
帰り道、トモユキはガラスに映る自分を何度も見た。
短く整えられた髪。すっきりしたはずなのに、なぜか“寒々しい”。
髪が整ったのではなく、“減った”ことが明らかになったようだった。
スマホを取り出し、自撮りをしてみた。
何枚か角度を変えて撮ってみるが、どれも納得できない。
額の形、つむじの薄さ、光の反射――
そして、何よりも「自信のない表情」が、はっきりと写っていた。
トモユキは写真をすべて削除した。
そして、バッグから薄いキャップを取り出し、被った。
帽子は好きではない。頭が蒸れるし、似合わないとも思う。
だが今は、帽子がなければ、街を歩けない気がした。
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