第30話 母の髪

病室の白は、どこか冷たい光を帯びていた。
蛍光灯が静かに唸り、消毒液の匂いが鼻を刺す。
トモユキはベッド脇に立ち、母の手を見下ろしていた。
その右手には、小さなビニール袋が握られている。

中には、束ねられた“髪”。
わずかに褐色がかった細い毛が、光を受けて鈍く輝いていた。

「……これが、母さんの手に?」
美香が呟く。声は震えていた。
ユウタは黙って頷いた。

タカシが低い声で言う。
「倒れたときも、これを手放さなかった。
 医者が“指をほどこうとしたけど、異様な力で握っていた”って」

母の顔は穏やかだった。
しかしそのまぶたの下には、幾層にも積もった“何か”が眠っているように見えた。

トモユキは袋の中の髪に目を凝らした。
——白髪ではない。
だが、どう見ても母のものではなかった。
それは“若い男の髪”のように思えた。

「これ……誰の髪なんですか?」
トモユキの問いに、タカシはゆっくりと視線を外した。
「父さんのものだ」

美香が息を呑んだ。
ユウタも顔を上げた。
「亡くなった父さんの?」
「ああ。あの人が、まだ元気だったころ——母さんが自分で切って、取っておいたらしい」


■ 過去の影

その瞬間、トモユキの頭の中で遠い記憶が弾けた。
それは幼いころ、家の庭で見た光景だった。
母が父の髪を切っている。
春の午後、光の粒が風に舞う中で、ハサミの音がリズムを刻む。

「もったいないなあ」と父が笑い、
「また伸びるでしょ」と母が答える。

それはごく平凡な、幸せな風景だった。
だが、そのとき母は、切り落とした髪を小さな箱に入れていた。
——あれが、この髪なのだろうか。

なぜ、いままでそのことを思い出せなかったのか。
トモユキの胸の奥で、何かが少しずつ形を取り始めていた。


■ 母の目覚め

夕方、母がゆっくりと目を開けた。
「……タカシ? ユウタ?」
かすかな声に、三人が同時に顔を上げる。

「母さん、大丈夫?」
「少し……夢を見ていたの」

母は視線をトモユキに移した。
「あなた……初めて見る顔ね」
「僕は、美香さんの……友人です」

「そう。優しい目をしてる」
母は、穏やかに微笑んだ。

だが次の瞬間、彼女の指が再び動いた。
握っていた袋の中の髪を、確かめるように撫でる。
「この髪だけが、あの人の“生きていた証”なの」

美香が静かに涙をこぼした。
「母さん、もういいの。そんなもの……」
「いいえ。まだ終わっていないのよ」
母の声が急に強くなった。

「——あの人は、“誰か”に髪を奪われたの。
 自分の意思でじゃなかった」

その言葉に、室内の空気が一瞬で凍った。


■ 封印された記憶

夜、病院のロビーで四人が向かい合った。
タカシが腕を組み、深く息をつく。
「母さんの“あの人”ってのは、父さんのことだ。
 でも、“髪を奪われた”ってどういう意味なんだ?」

ユウタが答える。
「もしかして、病気で……?」
「いや。父さんが倒れたとき、髪はまだあった」

トモユキは黙っていた。
だが、脳裏にはある映像が浮かんでいた。

——十数年前、父親の通夜で見た“黒いスーツの男”。
その男は、祭壇の横で父の遺影を見つめながら、
小声でこう呟いた。
「……やっぱり、この家の“髪”は呪われてるな」

そのときの違和感を、トモユキはなぜか思い出していた。

「呪われてる……?」
無意識に口にすると、タカシが怪訝な顔をした。
「何か言ったか?」
「いえ……ただ、気になる言葉があって」

美香が小さく首を傾げた。
「もしかして、父さんが若いころに何かあったのかも」
「家系的な何かか?」とユウタが言う。

タカシは黙って、スマホを操作した。
「父さんの古い日記をスキャンしてたんだ」
画面に、数行の文字が浮かぶ。

『今日、再び夢を見た。
あの鏡の中に立つ男が、俺に言った——“髪は記憶だ”と。
あれ以来、抜けた毛を捨てられなくなった。』

一瞬、誰も言葉を発せなかった。


■ 髪は記憶

「……“髪は記憶”。」
トモユキはその言葉を、ゆっくりと口の中で転がした。

たしかに、髪は時間を刻む。
今日の髪は、数ヶ月前に頭皮で生まれたものだ。
つまり、髪は過去を記録する“時間の化石”でもある。

もし父がそれを信じていたなら——
“誰かに髪を奪われた”という母の言葉も、ただの比喩ではないのかもしれない。

美香が口を開いた。
「父さんの“髪”を誰かが……持ち去ったの?」
「ありえない」とタカシが答えたが、声には自信がなかった。

その瞬間、病室の扉がノックされた。
「夜分に失礼します」
若い看護師が入ってくる。
「お母さまの処置の際、こちらを見つけました」

差し出されたのは、小さな古びた封筒だった。
表面には震えるような文字でこう書かれていた。

『トモユキへ』

空気が一変した。
美香もユウタも息を呑む。
タカシの目が細くなる。
「……トモユキ? 母さん、あなたの名前を?」

トモユキは封筒を受け取り、しばらく動けなかった。
指先がわずかに震える。

封を切ると、中には一枚の写真と、髪の束が入っていた。
写真の中には、若き日の母、そして父——
そしてその隣に、見知らぬ少年が立っている。

少年の髪は、トモユキと同じ“癖”をしていた。


■ 真実の始まり

「この子……誰?」
美香が囁く。

トモユキは写真を裏返した。
そこには小さくこう書かれていた。

『1989年 夏 ——息子・トモユキと共に』

胸の鼓動が、音を立てて跳ねた。

「嘘だ……僕は、母さんの子じゃないのか……?」
言葉が喉の奥でひび割れた。

ユウタが一歩近づく。
「待ってください、どういうことですか?」
タカシが額に手を当てた。
「じゃあ、母さんがあんたの名前を知ってたのは……」

トモユキは封筒の底に残っていた紙片を取り出した。
古びたインクの跡。

『もしこの子が再び髪を失い始めたら、
どうか伝えて。
髪の記憶は、決して切れない。
それは、あの人が最後に残した“約束”だから。』

トモユキの目の奥に、過去と現在が重なっていく。
父の微笑み、母の手、切り落とされた髪。
すべてがひとつの線に結ばれ、
“髪=記憶”という言葉が、静かに現実を侵食していった。

そして彼は気づく。
——この家族の物語は、まだ終わっていない。
むしろ今、ようやく始まったのだ。

病室の窓の外で、夜風がそっとカーテンを揺らした。
その音は、まるで古い記憶が再び呼吸を始める音のようだった。