第31話 鏡の中の少年

朝、洗面所の鏡の前で立ち止まる。
 歯ブラシを咥えたまま、トモユキはじっと鏡の奥を見つめていた。
 視線の先には、まだ眠そうな中年男の顔。
 その額には、確かに後退した生え際が刻まれている。
 だが、その奥に――どこか、見覚えのある少年の顔が潜んでいる気がした。

 “この顔、俺の父に似てきたな”
 そんなことをふと考えた瞬間、歯ブラシの泡が口から零れ落ちた。
 父も、薄毛だった。
 そして彼もまた、鏡を見つめながら自嘲気味に笑う人だった。

 ――「髪がなくてもな、人は笑ってりゃ大丈夫なんだ」
 そう言っていた父の声が、泡のはじける音の中に蘇る。

 トモユキが小学生だったころ。
 夕食後のちゃぶ台に並んだ味噌汁の湯気の向こうで、父はいつも髪を撫でていた。
 母が「また抜けてるよ」と笑うたびに、父は「抜けてるくらいが風通し良くていい」と言っていた。
 その明るさを、トモユキは心から尊敬していた――けれど。

 中学に上がるころ、父の笑顔は少しずつ減っていった。
 洗面所で抜け毛を拾う背中を見たことがある。
 あの時の、光の反射で輝く父の頭頂部。
 それを見て、トモユキはなぜか息が詰まった。

 “笑ってるくせに、本当は悲しいんだろうな”
 少年の直感がそう告げていた。

 鏡の前で、トモユキは深く息を吐く。
 いつの間にか、自分がその“背中”に似てきた。
 笑顔を作るほど、胸の奥がざわつく。
 父と同じ道を辿ることが、まるで宿命のように思えてくる。


 その日の午後、会社の昼休み。
 同僚の井上がスマホを見せながら言った。
 「トモユキさん、これ見てくださいよ。AGAの新しい治療、すごいですよ」
 画面には、薄毛の男性がフサフサに変わる動画広告。
 トモユキは曖昧に笑った。
 「へぇ、すごいね」
 だが心の奥では、何かが冷たく沈んでいった。

 “努力しても、変わらないものってあるんじゃないか?”
 父の頭が一瞬よぎる。

 その夜、部屋に戻ると、トモユキは引き出しの奥から古いアルバムを取り出した。
 開くと、少年の自分と若い父が笑っていた。
 父の髪はまだ濃く、手にはトモユキの肩を包み込むような力があった。
 だが次のページをめくると――父の髪が薄くなっていくのがはっきりとわかる。
 ページごとに、時の重みと共に髪が消えていくようだった。

 “俺は、父の続きを生きているのかもしれない”

 そう思った瞬間、胸の奥に、奇妙な温かさが灯った。
 父が悩んでいた孤独も、笑いに変えようとした強さも、今なら理解できる。
 あの背中の意味がやっと分かった気がした。


 翌朝。
 トモユキは再び鏡の前に立つ。
 額の上で光を受ける細い髪たち。
 以前なら見ないふりをしたその景色を、今日ははっきりと見つめた。

 「…おはよう」
 鏡の中の自分に、小さくつぶやく。

 すると、少年時代の記憶がふっと蘇る。
 夏の日。
 風呂上がりに、父が息子の頭をタオルでごしごしと拭いてくれた。
 その時、鏡に映った二人の笑顔。
 父の薄くなった髪越しに見えた、少年の目の輝き。

 ――「トモユキ、髪なんてな、思ってるよりどうでもいいんだぞ。
   大事なのは、何を隠すかより、何を見せるかだ」

 その言葉が、今になって骨の奥に染み渡る。
 トモユキは静かにタオルを首に掛け、ドライヤーを手に取った。
 風を当てると、頭皮の温度が少しずつ上がっていく。
 まるで、過去の父と自分の間に流れていた“あの風”を取り戻すようだった。


 会社へ向かう道の途中、ガラスに映る自分の影が目に入る。
 その中には、確かに少年がいた。
 あの日のままの、父を見上げていた少年。
 彼が、鏡の奥から小さく笑っている。

 “お前、まだ戦ってるんだな”
 その無言の声が、風に混じって聞こえた。

 トモユキは歩みを止め、空を見上げた。
 雲の切れ間から射す朝日の下、髪が微かに光を返す。
 それはまるで、父が息子に託した希望のようだった。


 帰宅後、洗面所の電灯を消すと、鏡の中にぼんやりと浮かぶ自分の輪郭。
 暗闇の中でふと、微かな“もう一人の自分”が笑った気がした。
 ――少年の自分。
 “この先、どんな姿になっても、恥ずかしくない生き方をしよう”
 その声が、胸の奥で静かに鳴り響いた。

 トモユキは、鏡の中の少年に向かってゆっくりと頷いた。

 だが、次の瞬間――
 ふと、鏡の奥の“少年”が、わずかに目線を逸らしたように見えた。

 その違和感に、トモユキの背筋が凍る。
 まるで、彼が“何か”を知っているような。
 まだ語られていない未来を、見透かしているような。

 鏡の中の少年は、再び静かに微笑んだ。
 その笑顔が、なぜか少しだけ――悲しかった。