朝、洗面所の鏡の前で立ち止まる。
歯ブラシを咥えたまま、トモユキはじっと鏡の奥を見つめていた。
視線の先には、まだ眠そうな中年男の顔。
その額には、確かに後退した生え際が刻まれている。
だが、その奥に――どこか、見覚えのある少年の顔が潜んでいる気がした。
“この顔、俺の父に似てきたな”
そんなことをふと考えた瞬間、歯ブラシの泡が口から零れ落ちた。
父も、薄毛だった。
そして彼もまた、鏡を見つめながら自嘲気味に笑う人だった。
――「髪がなくてもな、人は笑ってりゃ大丈夫なんだ」
そう言っていた父の声が、泡のはじける音の中に蘇る。
トモユキが小学生だったころ。
夕食後のちゃぶ台に並んだ味噌汁の湯気の向こうで、父はいつも髪を撫でていた。
母が「また抜けてるよ」と笑うたびに、父は「抜けてるくらいが風通し良くていい」と言っていた。
その明るさを、トモユキは心から尊敬していた――けれど。
中学に上がるころ、父の笑顔は少しずつ減っていった。
洗面所で抜け毛を拾う背中を見たことがある。
あの時の、光の反射で輝く父の頭頂部。
それを見て、トモユキはなぜか息が詰まった。
“笑ってるくせに、本当は悲しいんだろうな”
少年の直感がそう告げていた。
鏡の前で、トモユキは深く息を吐く。
いつの間にか、自分がその“背中”に似てきた。
笑顔を作るほど、胸の奥がざわつく。
父と同じ道を辿ることが、まるで宿命のように思えてくる。
その日の午後、会社の昼休み。
同僚の井上がスマホを見せながら言った。
「トモユキさん、これ見てくださいよ。AGAの新しい治療、すごいですよ」
画面には、薄毛の男性がフサフサに変わる動画広告。
トモユキは曖昧に笑った。
「へぇ、すごいね」
だが心の奥では、何かが冷たく沈んでいった。
“努力しても、変わらないものってあるんじゃないか?”
父の頭が一瞬よぎる。
その夜、部屋に戻ると、トモユキは引き出しの奥から古いアルバムを取り出した。
開くと、少年の自分と若い父が笑っていた。
父の髪はまだ濃く、手にはトモユキの肩を包み込むような力があった。
だが次のページをめくると――父の髪が薄くなっていくのがはっきりとわかる。
ページごとに、時の重みと共に髪が消えていくようだった。
“俺は、父の続きを生きているのかもしれない”
そう思った瞬間、胸の奥に、奇妙な温かさが灯った。
父が悩んでいた孤独も、笑いに変えようとした強さも、今なら理解できる。
あの背中の意味がやっと分かった気がした。
翌朝。
トモユキは再び鏡の前に立つ。
額の上で光を受ける細い髪たち。
以前なら見ないふりをしたその景色を、今日ははっきりと見つめた。
「…おはよう」
鏡の中の自分に、小さくつぶやく。
すると、少年時代の記憶がふっと蘇る。
夏の日。
風呂上がりに、父が息子の頭をタオルでごしごしと拭いてくれた。
その時、鏡に映った二人の笑顔。
父の薄くなった髪越しに見えた、少年の目の輝き。
――「トモユキ、髪なんてな、思ってるよりどうでもいいんだぞ。
大事なのは、何を隠すかより、何を見せるかだ」
その言葉が、今になって骨の奥に染み渡る。
トモユキは静かにタオルを首に掛け、ドライヤーを手に取った。
風を当てると、頭皮の温度が少しずつ上がっていく。
まるで、過去の父と自分の間に流れていた“あの風”を取り戻すようだった。
会社へ向かう道の途中、ガラスに映る自分の影が目に入る。
その中には、確かに少年がいた。
あの日のままの、父を見上げていた少年。
彼が、鏡の奥から小さく笑っている。
“お前、まだ戦ってるんだな”
その無言の声が、風に混じって聞こえた。
トモユキは歩みを止め、空を見上げた。
雲の切れ間から射す朝日の下、髪が微かに光を返す。
それはまるで、父が息子に託した希望のようだった。
帰宅後、洗面所の電灯を消すと、鏡の中にぼんやりと浮かぶ自分の輪郭。
暗闇の中でふと、微かな“もう一人の自分”が笑った気がした。
――少年の自分。
“この先、どんな姿になっても、恥ずかしくない生き方をしよう”
その声が、胸の奥で静かに鳴り響いた。
トモユキは、鏡の中の少年に向かってゆっくりと頷いた。
だが、次の瞬間――
ふと、鏡の奥の“少年”が、わずかに目線を逸らしたように見えた。
その違和感に、トモユキの背筋が凍る。
まるで、彼が“何か”を知っているような。
まだ語られていない未来を、見透かしているような。
鏡の中の少年は、再び静かに微笑んだ。
その笑顔が、なぜか少しだけ――悲しかった。
最近のコメント