第33話 写真の中の影

翌朝、窓の外にはまだ小雨が残っていた。水滴がガラスを滑り落ち、街路灯の光を揺らしている。トモユキは昨夜の封筒とノートの余韻に包まれながら、机の上に置かれた箱の中をもう一度探した。

 その中で、古いアルバムが目に留まった。表紙はほこりまみれで、手に取ると紙の匂いが鼻をくすぐる。母が子供の頃から撮りためた写真や、父の若い日の記録が詰まったアルバムだった。

 手を伸ばすと、ページの隙間から一枚の古い写真が落ちた。セピア色に褪せたその写真には、幼いトモユキが母と笑顔で写っている。だが、背景の窓の外に、ぼんやりと少年の影が映っていた。

 ――あの少年は誰だ?

 トモユキの心臓が跳ねる。昨日、父の手紙で示された“あの少年”のことが、頭に浮かんだ。封筒に書かれた追伸「“あの少年”を見つけなさい」が、アルバムの中で現実として姿を見せている。


 トモユキは写真を手に取り、じっと観察する。影は、確かに人影の輪郭をしている。だが、その表情は判別できない。少年の姿は、何かを見つめているようであり、しかしカメラに気づいた形跡もない。

 子供の頃の自分と向かい合う少年――それは、自分の記憶の中に潜むもう一人の自分か、それとも父の若い頃の姿か。

 幼いころ、父はしばしば「風通しのいい頭」と言って笑ったことを思い出す。あの日の言葉と、この写真の影が、どこかで繋がっているような感覚がした。


 アルバムをめくりながら、トモユキは次第に過去に引き込まれていった。

 小学校の夏休み、庭で遊んでいた日のこと。父は、仕事から帰ると必ず風呂場で鏡を見て髪を整えていた。その背中を見て、トモユキは無意識に髪型や自分の姿を気にするようになった。父は何も言わなかったが、その背中から、髪に対する誇りと不安が滲み出ていた。

 ある日、トモユキは風呂上がりの父を見かけ、思わず訊いた。

 「お父さん、髪、気になる?」

 父は笑って肩をすくめた。

 「気になるさ。でもな、それより大事なのは、鏡を見る勇気だ」

 その言葉が、今も胸の奥に残っていた。写真の影は、もしかすると父が言った“鏡を見る勇気”の象徴なのかもしれない――そんな予感が、トモユキの心をざわつかせた。


 ページをめくるうちに、写真は過去の集まりや行事へと移る。運動会、家族旅行、誕生日会。どの写真にも、背景に必ず少年の影が写り込んでいる。

 しかし、その少年は、決して同じ表情をしていない。時に寂しげで、時に好奇心に満ち、時には不安そうにこちらを見つめている。

 ――これは何だ?

 トモユキは、息を詰める。少年の影は、彼自身の成長の過程を、そして父の過去を重ね合わせているのではないかという感覚を与える。髪のこと、心のこと、すべてを映す鏡のように。


 過去の記憶と写真の影が絡み合う中、トモユキはふと、父の声を思い出す。

 「髪は心の天気予報だ」

 幼いころは意味がわからなかったその言葉が、今では理解できる。髪が薄くなること、風に揺れること、そして鏡に映る自分自身。それらはすべて、内面の状態を映し出していた。

 トモユキは、写真の影に向かってそっと話しかける。

 「君は…俺の中の自分か、父さんの若い頃か、それとも…」

 返事はない。しかし、その沈黙の中に、確かな存在感を感じる。写真の影は、時間を超え、過去と現在を繋ぐメッセージのように立っていた。


 アルバムの最後のページには、父の若い頃の写真が挟まれていた。若い父は、鏡を前にして髪を整えている。目線は真剣で、しかし微かに笑みを浮かべている。その視線の先に、トモユキの幼少期の姿が重なるように見えた。

 ――あの少年は、父自身でもあるのか?

 心の奥底で、トモユキは何かが繋がる感覚を覚える。髪の薄さへの葛藤、鏡を見つめる勇気、そして父の存在。すべてが一つの線で結ばれ始めていた。


 その時、外の風が強くなり、窓の隙間からアルバムのページがひらりとめくれた。落ちた写真の下に、もう一枚のメモが現れる。

 > トモユキ、君が過去を知るとき、未来も変わる。
 > 見つけるのは、君自身の勇気だ。

 トモユキは息をのむ。このメモは、父の手紙とノート、そして写真に写る少年の影と呼応している。過去を知ることで、自分の未来を見つめる力になる――その確信が胸に生まれた。


 雨は止み、夜明けの光が部屋に差し込む。トモユキはアルバムを閉じ、深く息をついた。写真の影、父の言葉、そして自分の心。それらが、まるで一つの物語として彼の中で結びついた瞬間だった。

 しかし、最後にひとつの疑問が残る。アルバムの影は、ただの偶然なのか、それとも父が意図して残した何らかのメッセージなのか。

 ――あの少年は、誰なのか?

 問いは、次の冒険への扉となった。過去と未来を繋ぐ旅路は、まだ始まったばかりだった。