第41話 何も言われなかった日

その日は、何の予兆もなく始まった。

 トモユキは、いつもより少しだけ早く家を出た。理由は特になかった。ただ、鏡の前で髪を整えているうちに、「今日は急ぐ必要がない」と感じただけだ。
 その感覚自体が、彼にとっては珍しかった。

 以前の彼は、朝という時間を嫌っていた。
 光は残酷で、鏡は正直すぎた。
 濡れた髪が乾いていく過程で、隠せていたものが、順番に露わになっていく。その時間を、彼はいつも早送りしたかった。

 だが今朝は違った。

 薄くなった前頭部を、必要以上に撫でることもなく、角度を変えて確認することもなかった。ただ、そこに「そういう自分の頭」がある、という事実を受け取っただけだった。

 ――慣れ、だろうか。

 そう思った瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
 慣れる、という言葉には、諦めと受容が混ざっている。その境界がどこにあるのか、彼にはまだわからなかった。

 駅までの道を歩きながら、彼は風を意識した。
 以前なら、少しでも強い風が吹く日は、無意識に頭をかばっていた。
 だが今日は、風はただの風だった。

 それが、少し怖かった。


 会社では、特別なことは何も起きなかった。

 同僚の佐藤が、昼休みに新しい髪型の話をしていた。
 「美容師にさ、“思い切って短くしましょう”って言われてさ」

 その会話に、トモユキの心は一瞬だけ反応した。
 “思い切って”
 その言葉は、いつも薄毛と隣り合わせで使われる。

 だが、誰も彼の方を見なかった。
 誰も、気まずそうな間を作らなかった。
 誰も、彼の頭の話をしなかった。

 それが、奇妙だった。

 トモユキは、自分が透明になったような気がした。
 薄毛という特徴が、彼を目立たせるのではなく、逆に世界から切り離しているような感覚。

 ――誰も、何も言わない。

 それは、優しさなのか。
 それとも、無関心なのか。

 その境界もまた、彼にはまだ判断できなかった。


 午後、コピー機の前で、若い女性社員とすれ違った。

 彼女は一瞬、トモユキの顔を見て、軽く会釈した。
 それだけだった。

 以前の彼なら、その一瞬の視線に、意味を読み取ろうとしただろう。
 「今、見られた」
 「気づかれた」
 「やっぱり、薄いと思われた」

 だが今日は、違った。

 彼は、その視線の“温度”を感じ取れなかった。
 熱も、冷たさもなかった。
 ただ、視線だった。

 そのことが、なぜか胸に残った。


 帰り道、彼は少し遠回りをして、公園を通った。
 ベンチに座ると、向かい側に親子がいた。

 小さな男の子が、風に吹かれて髪を乱しながら、何度も父親に言う。

 「ねえ、髪、変じゃない?」

 父親は笑って、男の子の頭を撫でた。

 「大丈夫だよ。風のせいだ」

 その言葉に、トモユキの胸がわずかに締めつけられた。

 ――風のせい。

 それは、かつて父がよく使っていた言葉だった。
 まだ自分が子どもだった頃、父の頭を見て、無邪気に聞いてしまったときの答え。

 「お父さん、ここ、少し薄いね」

 あのとき、父は一瞬だけ黙ってから、こう言った。

 「風が強いからな」

 その笑顔の裏に、何があったのか。
 今なら、少しだけわかる気がした。


 家に帰り、シャワーを浴びたあと、トモユキはまた鏡の前に立った。

 濡れた髪。
 乾いていく途中の、最も正直な状態。

 彼は、そこに問いを投げかけた。

 ――俺は、今、どう見えている?

 だが、答えは返ってこなかった。

 その沈黙が、今日一番の出来事だった。

 誰にも何も言われなかった日。
 誰にも指摘されず、誰にも慰められなかった日。

 それは、安らぎであると同時に、次の段階への入り口でもあった。

 鏡の中の自分が、ほんの一瞬だけ、父と重なって見えた。
 そして、その奥に、まだ言葉を持たない“何か”がいる気がした。

 ――まだ、終わっていない。

 そう確信したところで、風が窓を鳴らした。

 その音は、どこかで次の物語が動き出した合図のようだった。