それは、衝動だった。
計画でも、覚悟でもない。
言葉にするつもりなど、本当はなかった。
その日、トモユキは美香と会っていた。
仕事終わり、駅から少し離れた小さな居酒屋。照明は暗く、壁には年季の入った木の染みが残っている。選んだ理由はただ一つ――明るすぎないからだ。
彼は、席に着いた瞬間から、自分の鼓動が少し早いことに気づいていた。
――今日は、何かが起きる。
そんな予感だけが、胸の奥にあった。
最初は、他愛のない話だった。
仕事の愚痴。
最近観た映画。
美香の弟・ユウタの近況。
トモユキは、いつも通り聞き役に回っていた。相槌を打ち、適度に笑い、言葉を選ぶ。その振る舞いは、長年かけて身につけた安全な型だった。
だが、美香がふと、こんなことを言った。
「トモユキってさ、最近ちょっと変わったよね」
箸が止まる。
「え?」
「なんていうか……前より、静か?」
静か。
その言葉が、胸に落ちた。
――まただ。
41話、42話、43話。
「年上」「貫禄」「変わった」。
他人の言葉が、少しずつ輪郭を持ち始めている。
「悪い意味じゃないよ」と美香は続けた。「落ち着いてる、っていうか」
その瞬間だった。
トモユキの口が、彼自身の意志を追い越した。
「……髪のせいかもしれない」
言った。
先に。
空気が、止まった。
美香の目が、ほんの一瞬だけ見開かれる。
その表情を、トモユキははっきりと見てしまった。
――あ、見た。
今まで、誰にも見せなかった瞬間だ。
「え?」
「薄くなってきてるから。前より、老けて見えるんだと思う」
言葉は、意外なほど滑らかに出てきた。
準備していなかったからこそ、飾りがなかった。
胸の奥が、じん、と痛む。
だが同時に、奇妙な解放感もあった。
――もう、隠していない。
美香は、すぐには返事をしなかった。
視線が、一瞬だけ、トモユキの頭のほうへ向かい、すぐに戻る。
その一秒が、永遠のように長かった。
――今だ。
――ここで、何かを言われる。
同情か。
慰めか。
あるいは、気まずい沈黙か。
どれが来てもおかしくなかった。
だが、美香はこう言った。
「……自分から言うんだね」
その声は、驚きよりも、戸惑いに近かった。
トモユキは、ゆっくり頷いた。
「最近、言われることが増えてきて。だったら、先に言ったほうがいい気がして」
嘘ではなかった。
だが、全てでもなかった。
本当は――
言われる前に、自分で触れたかった。
その弱点に。
「怖くない?」
美香が、静かに聞いた。
その問いは、鋭かった。
逃げ道を塞ぐ質問だった。
トモユキは、少し考えてから答えた。
「……怖いよ」
正直だった。
「でも、言われるよりは、マシかもしれない」
その言葉を口にした瞬間、彼は気づいた。
これは防御ではない。
選択だ。
美香は、グラスを持ったまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐いて言った。
「私さ」
その一言に、トモユキの背筋が伸びる。
「ユウタのことで、ずっと後悔してることがある」
――来た。
これは、ただの告白では終わらない。
「弟が薄毛を気にし始めたとき、私、何も言わなかったの。触れちゃいけない気がして」
トモユキは、黙って聞いた。
「でも、あれって……逃げだったのかもって、最近思う」
その言葉は、静かだったが、重かった。
トモユキは、その瞬間、はっきりと理解した。
自分が先に言ったことで、相手の言葉も引き出してしまったのだと。
弱さを口にすることは、
ただ傷つく行為ではない。
他人の弱さを、呼び起こす。
それは、危険でもある。
だが――
どこか、誠実でもあった。
帰り道、夜風が頬を撫でた。
トモユキは、今日の自分を思い返していた。
・初めて
・自分から
・薄毛を
・言葉にした
それは、勝利でも敗北でもない。
だが、確実に線を越えた。
もう、完全に元には戻れない。
その事実に、胸が高鳴った。
――次は、どうなる?
誰かに言われる前に、
自分で語る。
その行為が、どんな未来を連れてくるのか。
風が、少し強く吹いた。
だが彼は、頭を押さえなかった。
そのことに、ふと気づき、
小さく笑った。
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