第46話 冗談にされた日

その噂は、昼過ぎにはフロアの隅々まで行き渡っていた。

 誰が最初に言ったのかは、分からない。
 だが、トモユキには分かった。

 佐々木ではない。

 佐々木は、善意の人間だ。
 少なくとも、本人の前で笑うことはしない。

 問題は、その“外側”だった。


 「ねえ、トモユキさんってさ」

 コピー機の前。
 女子社員の声が、妙に明るい。

 「最近、開き直ってるよね」

 くすくす、という笑い。

 トモユキは、背を向けたまま、紙を揃えていた。
 聞こえないふりをするには、声が近すぎた。

 「自分から言うタイプなんだって?」

 「え、何を?」

 「ほら、髪」

 一瞬、時間が止まる。

 “髪”
 それは、つい三日前まで、
 誰も口にしなかった単語だった。


 「でもさ、あれって逆にアリじゃない?」

 別の声。

 「言われる前に言うとか、メンタル強いよね」

 その言葉は、
 褒め言葉の形をしていた。

 だが、トモユキの胸には、
 冷たいものが落ちた。

 ――違う。

 強くなんかない。
 逃げただけだ。


 「ね、本人はどう思ってるんだろ」

 「さあ? 気にしてないフリとか?」

 フリ。

 その一言が、深く刺さる。

 トモユキは、コピー機のスタートボタンを、
 必要以上に強く押した。


 その瞬間、
 またしても、過去が侵入してきた。


〈回想:高校時代〉

 教室の後ろ。

 トモユキは、前の席の男子に、
 後頭部をじっと見られていた。

 「なあ」

 小さな声。

 「お前さ、ちょっと薄くね?」

 笑いは、起きなかった。
 ただ、数人が、確認するように見た

 トモユキは、何も言えなかった。

 その日から、
 鏡を見るたび、
 “確認されている自分”が浮かぶようになった。


 「トモユキさん」

 今度は、もっと近い声。

 振り向くと、上司の田辺が立っていた。
 四十代後半。
 悪気はないが、配慮もない男。

 「最近さ」

 田辺は、軽い調子で続けた。

 「開き直ってるって聞いたよ」

 笑いながら、
 トモユキの頭を、見た

 それは、視線だった。
 触れていないのに、
 確実に触れられた感覚。


 「いや、まあ……」

 トモユキは、曖昧に笑った。

 すると田辺は、
 冗談のトーンで、こう言った。

 「でもさ、男なんて、そのうち皆そうなるんだから」

 ――そのうち。

 その言葉が、
 今の自分を、未来へ追いやる

 今、苦しいことを、
 なかったことにする言葉。


 「気にしすぎだよ」

 田辺は、そう言って去っていった。

 残されたトモユキは、
 笑顔を保ったまま、
 動けなくなった


 ――冗談にされた。

 それが、
 いちばん、きつかった。

 否定でも、侮辱でもない。
 ただの、処理。

 存在を軽くして、
 話題を消費する行為。


 その夜、
 トモユキは、美香にメッセージを送った。

 > 今日、会社で
 > ちょっとした冗談にされました

 すぐに既読がついた。

 > どんな?

 トモユキは、少し考えた。

 正確に書くと、
 自分が壊れそうだった。

 > 気にしすぎって言われました

 数分後。

 > それ、いちばん傷つくやつだね

 画面を見つめたまま、
 トモユキは、息を止めた。

 分かってもらえた
 ただそれだけで、
 胸の奥が、少し緩む。


 その直後、
 別の名前が、頭に浮かんだ。

 ユウタ。

 あいつは、
 まだ“冗談にされていない”。

 だが――
 時間の問題だ。


 トモユキは、スマホを伏せ、
 天井を見上げた。

 言葉にしたことで、
 楽になった部分もある。

 だが同時に、
 世界が勝手に触ってくるようになった。

 もう、戻れない。

 それでも。

 ――黙って削られるよりは、
 まだ、こちらのほうがいい。

 そう思おうとした瞬間。

 ふと、気づいた。

 冗談にされたのは、
 “薄毛”ではない。

 ――
 “トモユキが、それを言ったこと”
 そのものだ。

 その事実が、
 静かに、
 彼の中で燃え始めていた。