昼休みの食堂は、
いつもより騒がしかった。
テレビでは、バラエティ番組が流れている。
笑い声。
軽薄な効果音。
トモユキは、
トレーを持ったまま、立ち止まっていた。
――見えたからだ。
窓際の席。
ユウタが、同僚二人と向かい合って座っている。
それだけなら、何でもない。
だが、ユウタの肩は、
不自然なほど、すぼんでいた。
「いやー、最近さ」
声が、届く。
「風、怖くない?」
笑い声。
トモユキの指が、
トレーの縁を、ぎゅっと掴んだ。
「え? 何で?」
ユウタの声は、
思ったより、明るかった。
だがそれは、
**“答え”ではなく、“対応”**だった。
「だってさ、ほら」
同僚の一人が、
自分の頭を、軽く叩く。
「上、来てるじゃん?」
笑い。
その瞬間、
トモユキの中で、
何かが、はっきりと音を立てて折れた。
――ああ。
――同じだ。
この“流れ”。
否定しない。
怒らない。
笑って、受け取る。
そうすれば、
場は、壊れない。
自分だけが、壊れる。
〈回想:数年前〉
トモユキは、飲み会の席で、
同じように笑っていた。
「まだ大丈夫っしょ」
そう言って、
自分の頭を指差しながら。
本当は、
毎晩、枕に落ちる髪を数えていた。
「でもさ」
ユウタの同僚が、
冗談の刃を、さらに押し込む。
「兄貴もそうじゃん?」
トモユキの名が、
突然、そこに置かれた。
空気が、一瞬、止まる。
ユウタが、
視線を伏せた。
それは、
トモユキが、
何百回もしてきた動作だった。
トモユキは、
もう、動いていた。
気づいたときには、
テーブルの前に立っていた。
「――それ、やめてください」
声は、
震えていた。
だが、
逃げなかった。
「え?」
同僚が、驚いた顔をする。
「何がですか?」
トモユキは、
自分の喉が、
ひりつくのを感じながら、続けた。
「薄いとか、来てるとか」
言葉が、
空気に、重く落ちる。
「冗談のつもりでも、
本人は、毎日それ考えてます」
誰も、笑わなかった。
それが、
何より、恐ろしかった。
「……すみません」
同僚は、
視線を逸らした。
「悪気は……」
トモユキは、
首を振った。
「分かってます」
――分かっている。
だからこそ、
言わずにいられなかった。
ユウタは、
何も言わなかった。
ただ、
トモユキを見ていた。
その目には、
驚きと、
そして、かすかな救いが混じっていた。
席を離れたあと、
二人は、廊下を並んで歩いた。
「……すみません」
ユウタが、言った。
「兄貴に、言わせちゃって」
トモユキは、
立ち止まった。
「違う」
静かに、言う。
「俺が、言いたかった」
しばらく、沈黙。
やがて、ユウタが、
ぽつりと漏らした。
「兄貴」
「うん」
「……怖いっすね」
その一言が、
胸に、深く刺さる。
トモユキは、
ゆっくりと、答えた。
「怖いよ」
誤魔化さなかった。
「毎日」
ユウタは、
小さく、笑った。
「ですよね」
その笑顔は、
まだ、脆かった。
その夜、
トモユキは、
自宅の鏡の前に立った。
照明の下。
逃げ場のない、現実。
だが、
今日は、違っていた。
鏡の中の男は、
誰かの前に立った男だった。
――守れなかった言葉は、
確かにある。
過去の自分。
何も言えなかった、あの瞬間。
だが、今日。
少なくとも一度、
言葉は、間に合った。
スマホが震える。
美香からのメッセージ。
> ユウタ、さっき
> 「今日は忘れられない日になった」って
トモユキは、
しばらく画面を見つめ、
そして、短く返信した。
> 僕もです
その直後、
ふと、思った。
――もし、
あの日、誰かが、
自分の前に立ってくれていたら。
人生は、
少し、違っていたかもしれない。
だが、
過去は、変えられない。
代わりに、
連鎖は、止められる。
その確信が、
トモユキの中で、
静かに、根を張り始めていた。
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