第47話 守れなかった言葉

昼休みの食堂は、
 いつもより騒がしかった。

 テレビでは、バラエティ番組が流れている。
 笑い声。
 軽薄な効果音。

 トモユキは、
 トレーを持ったまま、立ち止まっていた。

 ――見えたからだ。

 窓際の席。
 ユウタが、同僚二人と向かい合って座っている。

 それだけなら、何でもない。
 だが、ユウタの肩は、
 不自然なほど、すぼんでいた。


 「いやー、最近さ」

 声が、届く。

 「風、怖くない?」

 笑い声。

 トモユキの指が、
 トレーの縁を、ぎゅっと掴んだ。


 「え? 何で?」

 ユウタの声は、
 思ったより、明るかった。

 だがそれは、
 **“答え”ではなく、“対応”**だった。

 「だってさ、ほら」

 同僚の一人が、
 自分の頭を、軽く叩く。

 「上、来てるじゃん?」

 笑い。

 その瞬間、
 トモユキの中で、
 何かが、はっきりと音を立てて折れた。


 ――ああ。

 ――同じだ。

 この“流れ”。

 否定しない。
 怒らない。
 笑って、受け取る。

 そうすれば、
 場は、壊れない。

 自分だけが、壊れる。


 〈回想:数年前〉

 トモユキは、飲み会の席で、
 同じように笑っていた。

 「まだ大丈夫っしょ」

 そう言って、
 自分の頭を指差しながら。

 本当は、
 毎晩、枕に落ちる髪を数えていた。


 「でもさ」

 ユウタの同僚が、
 冗談の刃を、さらに押し込む。

 「兄貴もそうじゃん?」

 トモユキの名が、
 突然、そこに置かれた。


 空気が、一瞬、止まる。

 ユウタが、
 視線を伏せた。

 それは、
 トモユキが、
 何百回もしてきた動作だった。


 トモユキは、
 もう、動いていた。

 気づいたときには、
 テーブルの前に立っていた。

 「――それ、やめてください」

 声は、
 震えていた。

 だが、
 逃げなかった。


 「え?」

 同僚が、驚いた顔をする。

 「何がですか?」

 トモユキは、
 自分の喉が、
 ひりつくのを感じながら、続けた。

 「薄いとか、来てるとか」

 言葉が、
 空気に、重く落ちる。

 「冗談のつもりでも、
 本人は、毎日それ考えてます」


 誰も、笑わなかった。

 それが、
 何より、恐ろしかった。


 「……すみません」

 同僚は、
 視線を逸らした。

 「悪気は……」

 トモユキは、
 首を振った。

 「分かってます」

 ――分かっている。

 だからこそ、
 言わずにいられなかった。


 ユウタは、
 何も言わなかった。

 ただ、
 トモユキを見ていた。

 その目には、
 驚きと、
 そして、かすかな救いが混じっていた。


 席を離れたあと、
 二人は、廊下を並んで歩いた。

 「……すみません」

 ユウタが、言った。

 「兄貴に、言わせちゃって」

 トモユキは、
 立ち止まった。

 「違う」

 静かに、言う。

 「俺が、言いたかった」


 しばらく、沈黙。

 やがて、ユウタが、
 ぽつりと漏らした。

 「兄貴」

 「うん」

 「……怖いっすね」

 その一言が、
 胸に、深く刺さる。


 トモユキは、
 ゆっくりと、答えた。

 「怖いよ」

 誤魔化さなかった。

 「毎日」


 ユウタは、
 小さく、笑った。

 「ですよね」

 その笑顔は、
 まだ、脆かった。


 その夜、
 トモユキは、
 自宅の鏡の前に立った。

 照明の下。

 逃げ場のない、現実。

 だが、
 今日は、違っていた。

 鏡の中の男は、
 誰かの前に立った男だった。


 ――守れなかった言葉は、
 確かにある。

 過去の自分。
 何も言えなかった、あの瞬間。

 だが、今日。

 少なくとも一度、
 言葉は、間に合った。


 スマホが震える。

 美香からのメッセージ。

 > ユウタ、さっき
 > 「今日は忘れられない日になった」って

 トモユキは、
 しばらく画面を見つめ、
 そして、短く返信した。

 > 僕もです


 その直後、
 ふと、思った。

 ――もし、
 あの日、誰かが、
 自分の前に立ってくれていたら。

 人生は、
 少し、違っていたかもしれない。


 だが、
 過去は、変えられない。

 代わりに、
 連鎖は、止められる。

 その確信が、
 トモユキの中で、
 静かに、根を張り始めていた。