第49話 続けるという罰

朝の改札を抜けるとき、
トモユキは一度だけ、立ち止まった

ガラスに映る自分の頭。
照明はまだ弱く、
輪郭だけが浮かび上がっている。

――今日は、言うべきか。
――それとも、黙るべきか。

その問い自体が、
すでに過去のものであることを、
彼はうすうす感じていた。

なぜなら、
「一度言った人間」は、
もう選べない。


オフィスに入ると、
昨日よりも、さらに静かだった。

人はいる。
話し声もある。

だが、
自分の周囲だけが、抜け落ちている。

それは露骨な無視ではない。
もっと巧妙で、
もっと残酷なものだった。

・会話の終わりに合流しない
・視線が一瞬だけ逸れる
・冗談のトーンが、こちらでは下がる

――「腫れ物」だ。

トモユキは、
それを正確に理解した。


午前中の会議。

プロジェクターの前で、
若手がプレゼンをしている。

資料は甘い。
数字の根拠が弱い。

トモユキなら、
必ず指摘する点だった。

だが。

「……」

一瞬、
喉が詰まる。

――言えば、
 また距離が広がる。

――黙れば、
 自分が壊れる。

これは、
薄毛の問題と、まったく同じ構造だった。


〈回想:父〉

父は、
寡黙な人だった。

食卓で、
ほとんど話さない。

ある日、
母が言った。

「あなた、
 会社で何かあった?」

父は、
一瞬だけ黙り、
こう答えた。

「……何もない」

その言葉が、
嘘だと分かったのは、
 父が完全に黙ってからだった。


トモユキは、
会議室で、手を挙げた。

「一点、いいですか」

空気が、
再び、止まる。

だが、
もう慣れていた。

「この数字ですが、
 前提条件が違う可能性があります」

冷静に、
感情を排して。

それでも、
誰かが咳払いをした。

――まただ。


昼休み。

誰とも連まないまま、
トモユキは屋上に出た。

風が強い。

髪が揺れる。

一瞬、
手で押さえそうになり、
やめた。

――もう、隠す意味はない。

そう思った瞬間、
胸の奥に、
奇妙な怒りが生まれた。


そのとき、
後ろから声がした。

「……兄貴」

ユウタだった。

屋上のドアを、
そっと閉める。

「ここ、
 人来ないんすね」

「そうだな」

沈黙。

だが、
それは苦しくなかった。


「昨日」

ユウタが言う。

「ありがとうございました」

トモユキは、
首を振る。

「礼を言われることじゃない」

ユウタは、
フェンスの向こうを見る。

「でも……
 俺、思ったんです」

「何を?」

「兄貴が言った瞬間、
 あ、って」

「……」

「俺、
 ずっと逃げてたなって」


ユウタは、
自分の前髪を触った。

無意識の仕草。

「実は、
 高校のときから
 気づいてました」

トモユキの胸が、
少しだけ締まる。

「でも、
 言われるまで
 “ないこと”にしてた」

その言葉は、
かつての自分そのものだった。


「兄貴」

ユウタが、
まっすぐ見る。

「俺、
 言ってみようと思います」

「何を?」

「自分から」

トモユキは、
一瞬、言葉を失った。

それは、
自分が選んだ道だ。

同時に、
決して楽ではない道


「……楽じゃないぞ」

トモユキは、
正直に言った。

「孤独になる」

「はい」

「冗談にされる」

「分かってます」

「仕事に、
 関係ないはずのことで
 評価が変わる」

ユウタは、
少し笑った。

「兄貴、
 もう全部経験者じゃないですか」

その言葉に、
トモユキは、
初めて、笑った。


午後。

オフィスに戻ると、
ユウタは、
あえて同僚の輪に入った。

「そういえばさ」

軽いトーン。

「俺、
 最近ちょっと来てるんですよ」

空気が、
一瞬、固まる。

トモユキは、
遠くから、
その様子を見ていた。


「え?」

「どこ?」

「マジ?」

反応は、
予想通りだった。

だが、
ユウタは続けた。

「だから、
 変な冗談、
 ちょっと苦手で」

「……」

「言われると、
 結構考えちゃうんで」


沈黙。

誰も、
すぐには笑わなかった。

それは、
昨日のトモユキと同じ空気だった。

だが、
違う点が一つある。

ユウタは、
逃げなかった。


その夜。

トモユキは、
一人で部屋にいた。

鏡の前。

頭皮。
生え際。
現実。

だが、
今日は、
そこに別の像が重なっていた。

――言い切ったユウタ。
――黙らなかった自分。


スマホが鳴る。

美香からだ。

「今日さ」

「うん」

「ユウタ、
 すごく落ち着いてた」

トモユキは、
目を閉じた。

「そうか」

「ねえ」

美香が、
少し間を置く。

「トモユキ」

「何?」

「あなた、
 自分が思ってるより
 影響力あるよ」


その言葉は、
重かった。

影響力。

それは、
責任でもある。

同時に、
連鎖だ。


トモユキは、
窓を開けた。

夜風。

髪が揺れる。

だが、
もう怖くなかった。

怖いのは、
沈黙に戻ることだった。


ふと、思う。

――父は、
 誰にも言わなかった。

――だから、
 誰にも守られなかった。