第5話「風が怖い日」

朝のニュース番組の天気予報で「今日は風が強く吹き荒れる一日になります」と気象予報士が朗らかな笑顔で告げていたとき、トモユキはもうベッドの中で憂鬱な気持ちに支配されていた。

 風が強い日が嫌いだった。
 いや、「嫌い」という言葉ではまだ足りない。
 風が吹くたびに、自分の髪の毛が“あるのか”“ないのか”を、周囲の誰もが確認しているような気がしてならない。
 分け目の地肌が、風で一気にあらわになる。隠したつもりの薄毛が、無防備にさらされてしまう。
 “ああ、トモユキさん、だいぶきてるね”
 そんな視線が幻聴のように、街を歩いているときにも背後から突き刺さってくる。

 この日は土曜日だった。
 特に用事もない休日。出かける理由もない。だからこそ、外に出るべきなのかどうか、午前中の間じゅう迷い続けていた。
 けれど12時を過ぎたあたりで、どうしても必要な買い物を思い出してしまった。

「シャンプー、切れてたんだったな……」

 できるだけ人とすれ違わない時間を選んで外出する癖がついていた。
 午後2時頃が、比較的、買い物客が少ない。
 いつものように黒いキャップをかぶり、マスクをして、前髪を整え直してから、トモユキはそっとアパートのドアを開けた。
 その瞬間、びゅうっと強い風が顔を叩いた。
 帽子が浮きかけ、慌てて手で押さえる。

(やっぱり、やめればよかった……)

 自分で決めたのに、もう後悔していた。
 それでも引き返せないのは、トモユキの中にある「ちゃんとした大人でありたい」という意地だった。

 商店街の薬局に入るまでのほんの10分。
 その間に、3回は帽子が飛びそうになった。
 風が髪を逆立てる感覚が、過敏なほどに伝わってくる。
 怖かった。風が、怖かった。

 でも、もっと怖いのは、風ではなく、自分の心の中にある声だった。

『もう、見苦しいから、潔く剃ったらどうだ?』
『いつまで隠すつもり?みっともないよ』
『ハゲてる自分、受け入れろよ』

 そんな声が、何度も何度も、脳内で繰り返された。
 風に乗ってやってくるそれらの声は、他人ではなく、トモユキ自身の中から湧き上がる声だった。

「……でも、違うんだ」

 薬局のシャンプーコーナーの前で、トモユキは小さくつぶやいた。
 ハゲてる人がみんなダメなんじゃない。
 薄毛でも、かっこいい人はたくさんいる。
 ブルース・ウィリス、スタンリー・トゥッチ、パトリック・スチュワート。
 海外の俳優を思い浮かべるたびに、自分も「ありのままを受け入れよう」と思えるときがある。
 「自分は自分」と思える夜だって、あった。

 だけど、朝が来ると、また同じ迷路に落ちる。
 髪を整えて鏡を見て、光の加減で頭皮が見えた瞬間に、すべてが崩れてしまう。
 SNSでは、「薄毛でもイケてる」とポジティブな言葉を並べた投稿を見かける。
 けれど、その投稿をしている人たちは、笑顔がさまになっていて、筋トレもしていて、清潔感もあって、つまり――「俺とは違う人種だ」と思ってしまう。

 鏡の中の自分は、内向的で、人付き合いが苦手で、休日に1人でドラッグストアのシャンプー売り場で30分も立ち尽くしているような、冴えないサラリーマンだ。
 だから、やっぱりこう思ってしまう。
 「自分はこのまま禿げたくない」
 「ちゃんと、守りたい。せめて、今ある髪は」

 トモユキは薬局の棚から、スカルプケア用のシャンプーを手に取った。
 それは少し値が張るものだったけれど、“地肌ケア成分”と書かれたパッケージが、わらにもすがる気持ちの彼を惹きつけた。

 帰り道、また風が吹いた。
 前髪がめくれそうになるたびに、帽子を押さえながら、トモユキは小さな声でつぶやいた。

「がんばろう。まだ、できることはある」

 その声は、昨日よりも少しだけ、しっかりとしたものに聞こえた。
 そう、自分の中にある小さな炎が、消えていないことを確かめるように。