第50話 言葉が抜け落ちた朝

朝、トモユキは洗面所の鏡の前に立っていた。

 蛍光灯の白い光が、容赦なく頭頂部を照らしている。
 湿った髪は、昨夜よりも正直だった。

 ――変わっていない。

 昨日、誰かを守ったからといって、
 今日、髪が戻るわけではない。

 それでも、
 鏡の中の自分は、
 以前よりも「逃げ場のない顔」をしていた。

 薄毛は、
 今日もここにある。

 それを認めることが、
 もう苦痛ではなくなりつつあることに、
 トモユキは微かな違和感を覚えた。

 怖くないわけじゃない。
 ただ、怖さの質が変わった


 通勤電車の中。

 吊革を握りながら、
 トモユキは周囲の視線を感じていた。

 ――見られている。

 だが、以前のような確信はない。
 それでも、
 頭皮が熱を持つ感覚は消えない。

 隣に立つ男性は、
 自分よりも明らかに薄かった。

 だが、堂々としている。

 スマホを操作し、
 足を広げ、
 まるで世界に対して何の説明もいらないという態度。

 トモユキは、
 ふと、思った。

 ――あの人は、
 いつから、こうなれたのだろう。


 オフィスに着くと、
 昨日よりも、さらに静かだった。

 だが、
 完全な無視ではない。

 それが、
 いちばん厄介だった。

 「おはようございます」

 返事はある。
 ただ、短い。

 感情を含まない、
 必要最低限の音。

 トモユキは、
 それを一つひとつ受け取りながら、
 自分の席に座った。

 薄毛が原因で、
 こうなったわけじゃない。

 だが、
 薄毛を“言葉にした自分”が、
 こうなったのは確かだった。


 昼前、
 田辺が声をかけてきた。

 「トモユキ、ちょっといい?」

 会議室。

 ドアが閉まる。

 この構図を、
 トモユキは何度も経験してきた。

 だが、今日は違った。

 田辺は、
 椅子に座ると、
 一度だけ、言葉を探すように間を置いた。

 「最近さ」

 来る。
 トモユキは、
 腹の奥で構えた。

 「お前、
 変わったよな」

 意外だった。

 叱責でも、
 注意でもない。

 「変わった、ですか」

 「うん」

 田辺は、
 自分の頭を無意識に撫でた。

 その仕草に、
 トモユキの視線が吸い寄せられる。

 ――あ。

 初めて気づいた。

 田辺の生え際は、
 数年前より、確実に後退している。


 「前はさ」

 田辺が続ける。

 「もっと、
 周りに合わせるタイプだった」

 「……」

 「最近は、
 合わせない」

 トモユキは、
 黙って聞いていた。

 「それがな」

 田辺は、
 少し困ったように笑った。

 「悪いわけじゃない」


 その言葉は、
 曖昧だった。

 だが、
 敵意ではなかった。

 トモユキは、
 意を決して口を開いた。

 「僕」

 一瞬、
 声が震えた。

 「薄毛のことで、
 ずっと黙ってました」

 田辺の眉が、
 わずかに動く。

 「言うと、
 仕事とは関係ない評価を
 されると思ってたんです」

 沈黙。

 「でも」

 トモユキは、
 自分の頭を、
 初めて自分で指差した。

 「これを隠したまま
 働くのが、
 限界でした」


 田辺は、
 しばらく何も言わなかった。

 やがて、
 小さく息を吐いた。

 「……俺もな」

 その声は、
 驚くほど低かった。

 「同じだ」


 田辺は、
 自分の頭を指した。

 「誰にも言ってない」

 笑いでも、
 冗談でもない。

 「お前が言ったの聞いて、
 正直、
 羨ましかった」


 その瞬間、
 トモユキの胸の奥で、
 何かが、はっきりと形を持った。

 ――薄毛は、
 一人の問題じゃない。

 黙らされてきた、
 集団の沈黙だった。


 会議室を出るとき、
 空気は、少しだけ変わっていた。

 劇的ではない。
 だが、確実に。


 帰り道。

 トモユキは、
 またガラスに映る自分を見た。

 髪は、薄い。

 それは、
 何も変わっていない。

 だが、
 その事実が、
 彼の価値を決める唯一のものではなくなりつつあった。


 家に帰ると、
 ユウタからメッセージが届いていた。

 > 今日、
 > ちょっと空気変わりました
 > 怖いけど
 > 前より息ができます

 トモユキは、
 その文面を、
 何度も読み返した。

 息ができる。

 それは、
 薄毛の悩みを抱える者にとって、
 何よりも切実な言葉だった。


 夜。

 トモユキは、
 再び鏡の前に立つ。

 照明を消し、
 窓からの月明かりだけにする。

 輪郭は、
 ぼやける。

 だが、
 消えはしない。

 ――この頭で、
 どこまで行けるのか。

 その問いは、
 恐怖と同時に、
 奇妙な期待を孕んでいた。


 彼は、
 まだ知らない。

 この選択が、
 やがて
 「薄毛を語る人間」と
 「語らない人間」を
 はっきりと分けていくことを。