その違和感は、朝からあった。
出社して最初に感じたのは、
昨日までとは異なる種類の視線だった。
避けられている、というよりも、
測られている。
トモユキは、席に着きながら、
無意識に背筋を伸ばしていた。
薄毛が、
また一段、別の意味を帯び始めている。
午前中の作業は、順調だった。
集中しているとき、
薄毛のことは一時的に意識の外に出る。
だが、
それは突然、引き戻される。
「トモユキさん」
背後からの声。
振り向くと、
同じ部署の三浦が立っていた。
年齢は近い。
仕事もできる。
そして――
髪が多い。
「ちょっと、いいですか」
声は穏やかだった。
だが、
トモユキの胸の奥が、
小さく鳴った。
――来る。
給湯室。
人はいない。
三浦は、
コーヒーを注ぎながら、
何気ない調子で言った。
「最近、
薄毛の話、
オープンにしてますよね」
トモユキは、
逃げずに頷いた。
「はい」
「正直に言いますね」
三浦は、
カップを置いた。
「ちょっと、
困ってます」
その言葉は、
刃のようではなかった。
だからこそ、
深く刺さった。
「困る……?」
「はい」
三浦は、
一瞬、言葉を探した。
「職場って、
フラットであるべきじゃないですか」
トモユキは、
黙って聞いた。
「なのに、
個人的なコンプレックスを
持ち込まれると」
一拍。
「気を使わされる」
その瞬間、
空気が冷えた。
逃げ場はない。
ここは、
正論の形をした拒絶が
いちばん力を持つ場所だった。
「薄毛は、
あなたの問題ですよね」
三浦は、
淡々と続ける。
「それを共有されると、
周りが、
悪者みたいになる」
トモユキは、
一瞬、
言葉を失った。
過去の自分なら、
ここで謝っていただろう。
すみません。
気をつけます。
そう言って、
再び黙る。
だが、
今日は違った。
「……違います」
声は低かった。
だが、
確かだった。
三浦が、
眉を上げる。
「何がですか」
トモユキは、
自分の頭を、
軽く叩いた。
「これは、
僕の問題です」
頷く。
「でも」
一呼吸。
「黙らされてきたのは、
僕だけじゃない」
三浦は、
少しだけ、
目を逸らした。
その一瞬を、
トモユキは見逃さなかった。
「あなたが
気を使うのは」
トモユキは、
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「薄毛が、
“ないこと”だと思ってたからです」
沈黙。
給湯室の機械音だけが、
やけに大きい。
「触れてはいけないものを、
触った気分ですか」
トモユキは、
問いかけた。
責める口調ではない。
ただ、
確認するように。
三浦は、
しばらく何も言わなかった。
やがて、
小さく言った。
「……正直に言うと」
声が、
少し低くなる。
「怖いんです」
その言葉は、
意外だった。
「あなたが
薄毛を言葉にしたことで」
三浦は、
自分の額に、
指を当てた。
「自分も、
いつかそうなるって
想像させられる」
その瞬間、
トモユキは理解した。
――これは、
攻撃じゃない。
予告された未来への恐怖だ。
「だから」
三浦は、
苦笑いを浮かべた。
「見たくなかった」
トモユキは、
しばらく黙っていた。
そして、
静かに言った。
「僕もです」
それ以上、
言葉は続かなかった。
和解でも、
決裂でもない。
ただ、
現実が置かれただけだった。
席に戻る途中、
トモユキは、
窓ガラスに映る自分を見た。
薄毛は、
変わらない。
だが、
それが他人の未来を映す鏡になり始めている。
その夜。
美香に、
今日のことを話した。
彼女は、
少し考えてから言った。
「それって、
あなたが
“触れてはいけない存在”から
“触れてしまった存在”に
変わったってことだよ」
トモユキは、
ベッドに横になり、
天井を見つめた。
薄毛は、
弱さだと思っていた。
だが今は、
人の恐怖を浮かび上がらせるものに
なっている。
眠りに落ちる直前、
ふと、
父の後頭部が浮かんだ。
あの人も、
誰かにとっては、
見たくない未来だったのだろうか。
トモユキは、
初めて、
父の沈黙を
別の角度から見た気がした。
守るためだったのか。
それとも、
壊れないためだったのか。
答えは、
まだ出ない。
だが、
この問いは、
確実に
どこかへ向かっている。
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