その日は、朝から雨だった。
傘を差しても、
湿気は容赦なく髪にまとわりつく。
トモユキは、
駅のトイレで一度だけ、
鏡を見た。
いつもより、
はっきりしている。
――今日は、
見える日だ。
会社に着くと、
すぐに声をかけられた。
「トモユキさん!」
後輩の中村だった。
「今日の雨、
やばいですね」
そう言って、
中村は自分の髪を軽く払った。
その仕草が、
無意識であることが、
余計にきつかった。
「トモユキさんは、
大丈夫そうですね」
冗談めいた口調。
ここで、
トモユキは一瞬、
選択を迫られた。
否定するか。
傷つくか。
それとも――
笑うか。
「まあ、
慣れてますから」
そう言って、
トモユキは笑った。
自分でも、
驚くほど
自然な笑顔だった。
その瞬間、
空気が軽くなった。
中村も笑う。
「さすがですね」
その言葉は、
賞賛の形をしていた。
――やってしまった。
トモユキは、
心の奥で
そう思った。
午前中、
その笑顔は、
思った以上に
効力を持った。
雑談に呼ばれる。
冗談を振られる。
「薄毛ネタ、
いけますよね?」
その一言に、
トモユキは、
また笑ってしまった。
誰も悪気はない。
それが、
いちばん残酷だった。
昼休み、
一人で食堂の端に座る。
箸を動かしながら、
トモユキは
自分に問いかけていた。
――今のは、
逃げだったのか。
――それとも、
前進だったのか。
午後、
会議中。
誰かが、
資料を見ながら言った。
「ここ、
少し薄くないですか」
別の誰かが、
小さく笑った。
視線が、
一瞬だけ
トモユキに集まる。
そのとき、
彼は反射的に、
口角を上げた。
笑った。
会議は、
何事もなく進んだ。
だが、
トモユキの中では、
何かが
確実に壊れていた。
帰り道。
雨は止んでいた。
だが、
髪は乾ききらず、
形を保てない。
電車の窓に映る自分を見て、
トモユキは思った。
――これは、
自分が選んだ姿だ。
家に帰り、
鏡の前に立つ。
ライトをつける。
角度を変える。
どこから見ても、
薄毛はそこにある。
そのとき、
突然、
涙が出た。
理由は、
はっきりしている。
――笑ってしまった。
――守るために。
――でも、
削ったのは
自分だった。
携帯が鳴った。
美香からだった。
「今日、
どうだった?」
その問いに、
トモユキは一瞬、
言葉を探した。
「……うまく、
やったよ」
その返事に、
美香は少し黙った。
「それ、
本音?」
トモユキは、
答えられなかった。
通話を切った後、
ベッドに腰を下ろす。
ふと、
父のことを思い出す。
あの人も、
きっと
こうやって
笑っていたのだろう。
何も言わず、
何も求めず、
ただ場を壊さないために。
トモユキは、
初めて理解した。
薄毛を語ることより、
薄毛を笑われることを
許した瞬間のほうが、
ずっと深い選択だということを。
そして、
次に誰かが言うだろう。
「トモユキさん、
ほんと余裕ですよね」
そのとき、
彼はもう一度、
笑うのか。
それとも――
初めて、
笑わないのか。
その選択が、
静かに、
彼を待っていた。
最近のコメント