第55話 本人不在の物語

最初に違和感を覚えたのは、
 自分が話しかけられなくなったことだった。

 昨日まで、
 軽口を叩いてきた人間が、
 今日はやけに距離を取っている。

 視線は来る。
 だが、
 言葉が来ない。


 午前中のフロアは、
 妙に静かだった。

 トモユキは、
 キーボードを叩きながら、
 周囲の空気を探っていた。

 何かが、
 すでに起きている。

 自分の知らないところで。


 昼前、
 コピーを取りに行ったときだった。

 曲がり角の向こうから、
 声が聞こえた。

 「……でも、
 本人は気にしてないらしいよ」


 足が、
 止まった。


 「むしろ、
 ネタにしてるって」

 別の声が、
 小さく笑った。


 トモユキは、
 その場に立ち尽くした。

 角の向こうに、
 誰がいるかは
 分からない。

 だが、
 自分のことだという確信だけは、
 はっきりあった。


 「すごいよね。
 ああいうの」

 「ああいうのって?」

 「ほら……
 薄毛」


 その言葉は、
 音としては
 何でもない。

 だが、
 文脈の中で
 鋭く変質する。


 「普通、
 隠すじゃん」

 「だよね。
 でも、
 あの人は違う」


 トモユキは、
 その先を聞かなかった。

 聞けなかった。

 静かに踵を返し、
 コピー機から離れた。


 席に戻る途中、
 頭の中で、
 言葉が反響していた。

 ――ネタにしてる。

 ――気にしてない。


 それは、
 昨日の自分が
 笑ったことから
 生まれた物語だった。


 午後、
 会議があった。

 いつも通り、
 議題が進む。

 だが、
 発言するたびに、
 どこか遠い。


 誰も、
 彼の頭を見ていない。

 だが、
 すでに見終わった後の目だった。


 会議後、
 三浦が近づいてきた。

 「……最近、
 大変そうですね」

 その言葉は、
 優しさを装っていた。

 だが、
 トモユキには分かった。

 ――知っている。


 「何がですか」

 トモユキは、
 あえて聞いた。

 三浦は、
 一瞬、言葉に詰まった。

 「いや……
 その……」


 言わない。

 それが、
 答えだった。


 帰り道。

 トモユキは、
 電車に揺られながら、
 思った。

 ――人は、
 本人がいないところで
 他人を完成させる。


 自分は、
 もう
 「薄毛を受け入れた人」になっている。

 そうでなければ、
 説明がつかないから。


 家に着き、
 靴を脱ぐ。

 その動作さえ、
 今日は重かった。


 鏡の前に立つ。

 髪は、
 昨日と同じ。

 何も変わっていない。

 それなのに、
 自分の輪郭が、
 どこか薄れている。


 携帯を見る。

 メッセージが一件。

 美香からだった。

 「今日、
 職場で何かあった?」


 トモユキは、
 すぐには返さなかった。

 言葉にすれば、
 現実になる気がした。


 やがて、
 短く打った。

 「俺の話が、
 俺のいないところで
 進んでる」


 返事は、
 すぐに来た。

 「それ、
 いちばんつらいやつだよ」


 その一文で、
 胸の奥が
 ひりついた。


 トモユキは、
 ベッドに腰を下ろし、
 天井を見上げた。

 父も、
 きっと
 こうしていた。

 自分が
 どう語られているのか、
 知らないふりをしながら。


 薄毛は、
 ただの身体的な変化だ。

 だが、
 それを巡る物語は、
 勝手に増殖する。


 そして、
 ある日ふと、
 本人だけが
 置き去りにされる。


 トモユキは、
 初めて思った。

 ――次に誰かが
 薄毛の話を振ってきたら。

 ――自分は、
 その物語を
 壊してしまうかもしれない。


 それが、
 優しさなのか、
 残酷さなのか。

 まだ、
 分からない。


 ただ一つ、
 はっきりしていることがあった。

 もう、
 黙って笑うだけでは
 戻れない場所に来てしまった


 静かな夜の中で、
 その事実だけが、
 確かに残っていた。