第56話 善意は説明しない

それは、昼休みの終わり際だった。

 フロアに人が戻り始め、
 ざわつきが少しずつ仕事の音に変わっていく、その境目。

 トモユキは席で、
 モニターを見つめていた。

 だが、
 内容はほとんど頭に入っていなかった。


 「トモユキさん」

 声をかけてきたのは、
 総務の女性だった。

 普段は、
 必要最低限のやり取りしかしない相手。

 その距離感が、
 今日に限っては
 逆に不穏だった。


 「ちょっと、
 お時間いいですか」

 断る理由は、
 見当たらなかった。

 トモユキは、
 黙って立ち上がった。


 小さな会議室。

 窓は閉まっていて、
 空気が少し重い。

 中にはすでに、
 二人の上司がいた。

 どちらも、
 穏やかな表情をしている。


 ――この顔だ。

 トモユキは、
 直感的に思った。

 何かを
 「良いこと」として
 伝える顔。


 「まずね」

 上司の一人が、
 ゆっくり話し始めた。

 「最近のあなたの姿勢、
 とても評価しているんです」


 評価。

 その言葉が、
 すでに
 少しずれて聞こえた。


 「その……
 ご自身のことを
 オープンにされているでしょう」

 言い淀み。

 だが、
 止まらない。


 「薄毛のこと」

 その単語が、
 静かに置かれた。

 否定も、
 感情もない。

 ただ、
 事実のように。


 「それを
 ちゃんと受け入れて、
 前向きに振る舞っている」

 「周りにも、
 良い影響を与えていると思います」


 トモユキは、
 黙っていた。

 ここで何かを言えば、
 話の筋が変わる。

 だが、
 変えていいのかどうか、
 分からなかった。


 「ですから」

 上司は、
 少し身を乗り出した。

 「新しい社内プロジェクトで、
 あなたに前に出てほしいと
 思っているんです」


 前に出る。

 その言葉の裏に、
 何があるか。

 トモユキには、
 もう分かっていた。


 「多様性とか、
 受容とか」

 「そういう文脈で、
 あなたの存在は
 説得力がある」


 説得力。

 それは、
 能力の話ではなかった。

 薄毛をどう扱ったか
 という一点だけの話だ。


 「もちろん、
 無理にとは言いません」

 「ただ……
 あなたなら、
 できると思って」


 善意だった。

 疑いようもなく。

 誰も、
 彼を傷つけようとしていない。


 だからこそ、
 トモユキは
 苦しかった。


 「少し、
 考えてもいいですか」

 そう言うのが、
 精一杯だった。


 会議室を出ると、
 廊下の蛍光灯が
 やけに白く感じられた。

 視界の端で、
 自分の影が揺れる。


 ――自分は、
 何を期待されている。

 ――何を
 引き受けさせられようとしている。


 席に戻ると、
 中村がこちらを見て、
 にこっと笑った。

 「何か、
 いい話ですか?」


 その一言で、
 すべてが繋がった。

 もう、
 物語は共有されている。

 自分の知らない速度で。


 「……まあ」

 トモユキは、
 曖昧に返した。

 笑わなかった。


 その夜。

 美香に、
 すべてを話した。

 途中で、
 言葉に詰まる場面もあった。


 「それってさ」

 美香は、
 静かに言った。

 「あなたが
 薄毛をどう生きてるか、
 じゃないんだよね」


 トモユキは、
 黙って頷いた。


 「“薄毛をどう使えるか”を
 見られてる」


 その言葉は、
 鋭かった。

 だが、
 正確だった。


 「ねえ、トモユキ」

 美香は続けた。

 「それを
 引き受けたら、
 あなたは楽になるかもしれない」

 「でも」

 一拍。

 「ずっと、
 その役を演じることになる」


 役。

 その言葉が、
 胸に残った。


 風呂上がり。

 鏡の前に立つ。

 頭頂部は、
 今日もはっきりしている。

 光を受けて、
 隠れない。


 トモユキは、
 初めて
 はっきり思った。

 ――薄毛は、
 自分の一部だ。

 ――だが、
 誰かの道具ではない。


 明日、
 返事を求められるだろう。

 そのとき、
 自分は何を差し出すのか。

 笑顔か。
 沈黙か。
 それとも、
 別の言葉か。


 答えは、
 まだ形にならない。

 だが、
 一つだけ確かなことがある。

 もう、
 善意の顔をした説明に
 身を委ねることはできない。


 薄毛は、
 語られてきた。

 これからは、
 語り返す番だ。