翌朝、
トモユキは目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
眠りは浅かったが、
頭は不思議と冴えていた。
鏡の前に立つ。
いつもの角度。
いつもの光。
薄毛は、
逃げも隠れもしない。
それが、
今日は少しだけ
違って見えた。
会社に着くと、
すぐに気配を感じた。
昨日の会議室の件は、
すでに
共有されている。
直接は言われない。
だが、
期待のようなものが
漂っている。
午前十時。
上司から、
短いメッセージが届いた。
「今日、
少し話せますか」
逃げる理由は、
もうなかった。
同じ会議室。
昨日よりも、
椅子が固く感じる。
上司は、
穏やかな表情を崩さなかった。
「どうですか。
考えてみて」
トモユキは、
一度だけ
息を吸った。
「お話、
ありがとうございます」
声は、
自分でも驚くほど
落ち着いていた。
「ただ……
今回は、
お断りしたいです」
一瞬。
空気が止まる。
「理由を、
聞いても?」
トモユキは、
少しだけ
視線を下げた。
頭を守る癖が、
出かけて、
すぐにやめた。
「薄毛は、
僕の一部です」
言葉を選ぶ。
だが、
濁さない。
「でも、
それを前提に
前に出ると」
一拍。
「僕は、
僕じゃなくなる気がします」
上司は、
すぐには返事をしなかった。
困惑と、
理解しようとする表情が
交錯している。
「そういうつもりでは……」
「分かっています」
トモユキは、
遮らず、
しかし引かなかった。
「だからこそ、
今、
言いたかったんです」
沈黙。
やがて、
上司は小さく頷いた。
「分かりました」
「無理は、
させません」
会議室を出た瞬間、
足が少し
震えた。
だが、
後悔はなかった。
席に戻ると、
空気が変わっているのが
分かった。
昨日までの
柔らかい視線が、
少し引いている。
中村が、
小声で言った。
「……もったいない気もしますけど」
トモユキは、
ただ頷いた。
説明は、
しなかった。
午後。
仕事は、
淡々と進んだ。
誰も、
薄毛の話をしない。
それが、
少しだけ
寂しかった。
――話題にされるのも、
されないのも、
痛みはある。
帰り道。
駅の階段で、
ガラスに映る自分を見た。
薄毛は、
そこにある。
だが、
今日は
背中がまっすぐだった。
家に着き、
美香に
断ったことを話した。
彼女は、
少し驚いたあと、
笑った。
「それ、
怖くなかった?」
「怖かった」
トモユキは、
正直に答えた。
「でも……
久しぶりに、
自分の声を聞いた気がした」
夜。
布団に入り、
天井を見つめる。
昼間の沈黙が、
頭に浮かぶ。
断ったことで、
何かを失ったかもしれない。
だが同時に、
何かを
取り戻した感覚があった。
薄毛は、
まだそこにある。
これからも、
消えない。
だが、
それをどう扱うかを
決めるのは、
自分だ。
その夜、
トモユキは
久しぶりに
夢を見た。
風が吹いても、
頭を押さえない夢だった。
目覚めたとき、
その感覚だけが、
胸に残っていた。
静かだが、
確かな一歩。
その音は、
他人には聞こえない。
だが、
トモユキ自身には
はっきりと響いていた。
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