第58話 言葉を持たない人

それは、静かな午後だった。

 電話も鳴らず、
 キーボードの音だけが
 フロアに淡く広がっている。

 トモユキは、
 資料を確認しながら、
 ふと背後の気配に気づいた。


 誰かが、
 立っている。

 振り返ると、
 そこにいたのは
 入社三年目の若手、佐藤だった。

 目が合う。

 だが、
 佐藤はすぐに視線を逸らした。


 「どうしました?」

 トモユキが声をかけると、
 佐藤は一瞬、
 言葉を探すように
 口を開き、閉じた。


 「……いえ」

 それだけ言って、
 去っていった。


 その背中に、
 どこか見覚えのある
 緊張があった。


 夕方。

 トモユキは、
 給湯室で
 紙コップを手にしていた。

 すると、
 背後から
 小さな声がした。


 「……すみません」

 振り返ると、
 また佐藤だった。


 「さっきは、
 すみませんでした」

 「いえ」

 トモユキは、
 無理に笑わなかった。


 沈黙。

 佐藤は、
 コップを持つ手を
 わずかに震わせている。


 「……聞きました」

 その一言で、
 トモユキは
 すべてを察した。


 「プロジェクト、
 断ったって」


 トモユキは、
 頷いた。

 否定も、
 説明も、
 しなかった。


 「……すごいと思いました」

 佐藤は、
 そう言った。

 だが、
 声に
 尊敬よりも
 焦りが混じっている。


 「どうしてですか」

 トモユキは、
 ゆっくり尋ねた。


 佐藤は、
 一瞬、笑おうとした。

 だが、
 失敗した。


 「……俺」

 一拍。

 「最近、
 気づいたんです」


 その言葉のあと、
 佐藤は
 自分の頭を
 軽く触った。

 ほんの一瞬。
 誰にも見せない動き。


 トモユキの胸が、
 静かに鳴った。


 「シャンプーのあと、
 排水溝が……」

 言葉が、
 途中で切れる。


 「トモユキさんが
 薄毛の話、
 してたじゃないですか」

 佐藤は、
 目を上げた。

 「正直、
 怖くなりました」


 その告白は、
 あまりにも
 真っ直ぐだった。


 「俺、
 まだ何も
 言葉を持ってないんです」

 佐藤は、
 絞り出すように言った。

 「隠すか、
 笑うか、
 まだ決められない」


 トモユキは、
 すぐには答えなかった。

 自分も、
 同じ場所に
 長く立っていたことを
 思い出していた。


 「断ったとき」

 トモユキは、
 ゆっくり話し始めた。

 「正直、
 正解かどうかは
 分かりませんでした」


 佐藤は、
 黙って聞いている。


 「でも」

 トモユキは続けた。

 「一つだけ
 分かったことがあります」


 「薄毛って、
 “どう見せるか”よりも」

 一拍。

 「“どう黙らないか”の問題だって」


 佐藤は、
 その言葉を
 何度も
 噛みしめるように
 頷いた。


 「……ありがとうございます」

 そう言って、
 佐藤は
 深く頭を下げた。


 トモユキは、
 慌てて言った。

 「答えは、
 急がなくていいですよ」


 佐藤は、
 小さく笑った。

 その笑顔は、
 まだ不安定だったが、
 確かに
 昨日よりも
 軽かった。


 その夜。

 トモユキは、
 自宅で
 一人、考えていた。


 断った選択は、
 自分のためだった。

 だが、
 それが
 誰かの問いを
 生んでしまった。


 薄毛は、
 連鎖する。

 恐怖も、
 沈黙も。

 そして、
 言葉も。


 トモユキは、
 初めて思った。

 ――もしかしたら、
 自分は
 誰かの「途中」なのかもしれない。


 完成でも、
 成功でもない。

 ただ、
 迷いながら
 立っている姿。


 それでも、
 その姿が
 誰かの鏡になることが
 ある。


 眠りに落ちる直前、
 トモユキの頭に
 ふと浮かんだのは、
 父の背中だった。


 あの人も、
 誰かに
 何も言わずに
 何かを渡していたのだろうか。


 答えは、
 まだ遠い。

 だが、
 確実に
 物語は
 別の方向へ
 枝分かれし始めていた。