第59話 「急ぎすぎる手」

 朝の電車は、いつもより混んでいた。

 トモユキは吊り革につかまりながら、
 窓の外をぼんやり眺めていた。

 昨夜はよく眠れた。
 だが、夢の内容は思い出せない。

 ただ、
 起きたときに胸の奥に残っていたのは、
 何かが静かに動き始めている感覚だった。


 会社に着くと、
 いつもと変わらないフロアの音が迎えた。

 コピー機。
 キーボード。
 誰かの笑い声。

 すべて、
 昨日と同じはずなのに、
 どこか少し違う。

 トモユキはその理由を、
 なんとなく分かっていた。

 佐藤だ。


 席を見ると、
 すでに佐藤は来ていた。

 だが、
 いつもと様子が違う。

 落ち着きがない。

 椅子に座っては立ち、
 また座る。

 そして、
 何度もスマートフォンを見ている。


 トモユキは声をかけなかった。

 昨日の会話を思い出す。

 排水溝。
 髪の毛。
 まだ言葉を持っていない、という告白。

 人は、
 何かに気づいた直後、
 たいてい少し急ぎすぎる。


 昼休み。

 トモユキはコンビニに向かうため、
 ビルの外に出た。

 空は薄い曇り。

 春が近いのに、
 風はまだ冷たい。


 信号を渡ろうとしたとき、
 ふと見覚えのある背中が目に入った。

 佐藤だった。


 ビルの並びにある
 小さなドラッグストアの前。

 佐藤は、
 店のガラス越しに
 何かを見つめている。


 トモユキも、
 何気なく視線を向けた。

 棚に並んでいるのは、
 育毛剤だった。


 ラベルはどれも似ている。

 太い文字。

 強い言葉。

 「覚醒」
 「復活」
 「密度」


 佐藤は、
 その棚の前で
 完全に立ち止まっていた。

 まるで、
 試験問題を前にした学生のように。


 やがて、
 一つの箱を手に取る。

 少し高い商品だ。

 パッケージには、
 黒々とした髪の男性の写真。

 その横に、
 大きく書かれた文字。

 「三ヶ月で変わる」


 トモユキは、
 胸の奥が
 少しだけざわついた。


 佐藤は、
 箱をじっと見つめている。

 そして、
 ゆっくりレジへ向かった。


 トモユキは、
 その場で立ち止まった。

 声をかけることは、
 できた。

 だが、
 足が動かなかった。


 人が何かを決める瞬間には、
 外から触れない方がいいこともある。

 トモユキは、
 それを知っていた。


 数分後。

 佐藤は店を出てきた。

 小さな袋を持っている。

 歩き方は、
 少し早い。

 まるで、
 誰かに見つかる前に
 この決断を終わらせたいように。


 トモユキは、
 その背中を
 遠くから見送った。


 午後。

 佐藤は、
 普段より静かだった。

 仕事はしている。
 だが、
 頭の中は別の場所にある。

 トモユキには分かった。

 あの袋の中身が、
 ずっと意識の中心にある。


 夕方。

 フロアの照明が
 少しだけ暗くなる時間。

 佐藤が突然、
 席を立った。

 そして、
 トイレの方向へ歩いていく。


 トモユキは、
 なぜかその背中を
 目で追ってしまった。


 五分後。

 トモユキも
 席を立った。

 理由はない。

 ただ、
 なんとなく。


 トイレのドアを開けると、
 静かな音が聞こえた。

 液体が、
 指先でこすられる音。


 鏡の前に、
 佐藤が立っていた。

 手には、
 見覚えのあるボトル。


 頭頂部に、
 液体を落としている。

 そして、
 必死に指で広げている。


 その表情は、
 真剣というより、
 焦りだった。


 佐藤は、
 鏡越しに
 トモユキに気づいた。


 一瞬、
 完全に固まった。


 手も、
 呼吸も。


 トモユキは、
 何も言わなかった。

 ただ、
 隣の洗面台で
 手を洗った。


 水の音だけが、
 静かに流れる。


 佐藤は、
 慌ててボトルをしまった。

 「……すみません」

 なぜか、
 謝った。


 トモユキは、
 タオルで手を拭きながら
 言った。

 「謝ることじゃないですよ」


 佐藤は、
 何も返さなかった。


 鏡の中。

 二人の頭が
 並んでいる。

 片方は、
 まだほとんど変わらない。

 もう片方は、
 確かに進んでいる。


 だが、
 共通しているものがあった。

 それは、
 時間だった。


 トモユキは、
 ドアに向かいながら
 ふと思った。

 人は、
 髪のために
 いろんなことをする。

 薬。
 祈り。
 隠し方。

 どれも、
 間違いではない。

だが、
 一つだけ
 気になることがあった。

佐藤の顔にあった、
あの焦り。

あれは、
かつての自分と
同じ顔だった。

廊下に出たとき、
トモユキは初めて思った。

もしかしたら、
今度は自分が
何かを言う番なのかもしれない。

だが、
その言葉はまだ、
見つかっていなかった。