トモユキは朝、洗面所の鏡の前に立つたび、まるで知らない誰かと対峙しているかのような感覚に囚われていた。そこに映る自分の姿は、彼が思い描いていた「自分」とは少し違っていた。髪は薄くなり、分け目の地肌が以前よりも明らかに見えている。ほんの数ミリの差が、彼の心に大きな影を落としていた。
「どうしてこんなにも、心が重いんだろう」
声に出さずに呟き、彼はゆっくりと手を伸ばして髪をかき上げる。触れる頭皮は冷たく、生命の息吹を感じるには物足りなかった。鏡の中の男は自信に満ちているわけでもなければ、穏やかでもない。むしろ怯え、焦り、そして何より孤独に押しつぶされそうになっているように見えた。
トモユキは、毎朝この鏡の前で自己との戦いを繰り返していた。薄毛の不安は、単なる見た目の問題ではない。自分の存在そのもの、自己価値の危機にまで発展していた。彼の心は何度も「俺はもう終わったのではないか」と囁き、その声は次第に大きくなっていた。
会社での人間関係もまた、彼の精神状態に重くのしかかっていた。普段から内向的で、初対面の人と話すことが苦手なトモユキは、薄毛を理由にますます人との距離を縮められなくなっていた。社内の飲み会や雑談の輪にも、彼は自分から距離を置き、孤立を深めていた。
ある日の午後、トモユキは会議室で資料を見つめながら、頭の片隅で「みんなが自分の髪を見ている」と錯覚していた。上司の質問に答える声は小さく、言葉の選び方も消極的だった。終わった後、同僚の何人かが彼の背中を軽く叩きながら励ましの言葉をかけてくれたが、トモユキの心はその言葉を受け止められなかった。
帰り道、いつもの通り無意識に鏡を見てしまう。駅のトイレの洗面所に映る自分の姿は、朝の鏡と同じように、不安でいっぱいの男だった。彼は鏡の前で何度も頭を撫でて、髪型を直そうとした。しかし、風が吹くと一瞬でセットが崩れ、分け目の地肌が透けて見えた。
「もう、隠しきれないな……」
トモユキの胸に悲しみがこみ上げた。彼は一瞬、そこに映る自分を見つめることをやめ、目を閉じた。
その夜、トモユキはスマートフォンを手に取り、「薄毛 カット おすすめ」などのキーワードで検索を始めた。多くの美容院や専門クリニックの広告やブログ記事が出てくる中で、一つのブログ記事が彼の目に留まった。
そのブログを書いているのは、経験豊富な美容師だった。タイトルは「薄毛は隠すものではなく、魅せるもの」という言葉で始まっていた。美容師は自身も薄毛に悩みながら、髪型を工夫して自信を取り戻した経験を語っていた。
トモユキはその文章を何度も読み返した。そこには、「薄毛は武器になる」「髪を短く整えるだけで、顔立ちが引き立つ」「自信は内面から湧いてくるもの」という内容が綴られていた。
翌日、勇気を振り絞って彼は予約の電話をかけた。美容院のスタッフの優しい声に少しだけ気持ちが軽くなった。予約したのは、薄毛に理解のあると評判の美容院だった。
当日、店に着くと、スタッフは明るく彼を迎えてくれた。美容師はまずじっくりとカウンセリングを行い、トモユキの髪質や頭の形、ライフスタイルを丁寧に聞き取り、適切な髪型を提案した。
「薄毛は隠すのではなく、魅せるものです。あなたの個性を最大限に活かしましょう」
その言葉に、トモユキは少しずつ心を開き始めた。
カットが始まると、彼は鏡の前でじっと自分の姿を見つめていた。髪が少しずつ切られていく中で、セットの仕方や頭皮の見え方も変わっていく。新しいスタイルは、トップにボリュームを持たせつつ、全体を短めに整えるもので、薄毛が目立たず、すっきりとした印象を与えるものだった。
仕上がった鏡の中の自分は、以前のような不安げな男ではなかった。彼はゆっくりと笑みを浮かべ、心の中にわずかな自信が芽生えるのを感じた。
帰宅してからも、何度も鏡を見つめた。確かに髪は薄い。しかし、それでも魅力的に見える自分がそこにいた。彼の心に、かつてない温かさが広がった。
翌日から、トモユキは変わり始めた。職場での姿勢が良くなり、目を合わせる回数も増えた。苦手だった雑談の輪にも、少しずつ参加し、声を出すようになった。失敗や戸惑いもあったが、彼は自分を責めることなく、前に進んでいた。
鏡の中のもう一人の男は、決して完璧ではない。だが、自分自身を受け入れ、歩き出した男だった。トモユキはその姿に、かすかな誇りを感じていた。
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