数日後の朝だった。
トモユキが席に着くと、すでに佐藤は来ていた。
パソコンの画面を見つめているが、指はほとんど動いていない。
画面には資料ではなく、何かの記事が開かれているようだった。
トモユキはコーヒーを置き、さりげなく横を通った。
そのとき、ほんの一瞬だけ文字が目に入った。
「最終手段」
「医学的アプローチ」
「劇的改善」
大きな見出しだった。
佐藤はすぐに画面を閉じた。
見られたことに気づいたらしい。
「おはようございます」
少し早口だった。
「おはよう」
トモユキはそれ以上触れなかった。
午前中は会議が続いた。
部署の小さな進行確認の会議だ。
資料の説明を聞きながら、トモユキはふと佐藤の様子を見た。
ペンを持っているが、メモはほとんど取っていない。
視線は机の上をさまよっている。
会議が終わると、佐藤はすぐ席を立った。
トイレの方向ではない。
廊下の奥の休憩スペースだった。
トモユキは少し迷ったが、数分後に同じ場所へ向かった。
休憩スペースには自動販売機がある。
昼前の時間で、人は少ない。
佐藤は窓際に立ってスマートフォンを見ていた。
真剣な顔だった。
トモユキは飲み物を買うふりをしながら、自然に近くへ行った。
すると、佐藤が画面をこちらに向けた。
「トモユキさん」
声は少し低い。
「ちょっと、聞いていいですか」
トモユキは頷いた。
佐藤はスマートフォンを差し出した。
そこにはクリニックのサイトが表示されていた。
大きな写真。
白い部屋。
医師らしい人物。
そして目立つ言葉。
「発毛治療」
「最新医療」
「短期間で変化」
トモユキは何も言わず、画面を見た。
佐藤が言った。
「こういうのって、どう思います?」
トモユキはすぐには答えなかった。
代わりに聞いた。
「気になってるんですか」
佐藤は小さく笑った。
「正直に言うと、かなり」
スマートフォンを見ながら続ける。
「薬とかあるみたいで」
「ちゃんと医学的に証明されてるって」
ページをスクロールする。
ビフォーアフターの写真が並んでいる。
黒い髪が増えていく頭頂部。
希望を感じさせる構図だった。
佐藤は少し声を落とした。
「俺、思ったんです」
「まだ間に合うんじゃないかって」
その言葉には、強い力が入っていた。
トモユキはその表情を見ていた。
焦り。
期待。
不安。
すべてが混ざっている。
トモユキはゆっくり言った。
「調べたこと、ありますよ」
佐藤が驚いた顔をした。
「え、そうなんですか」
「昔」
トモユキは窓の外を見た。
遠くのビルの屋上にアンテナが並んでいる。
「かなり調べました」
「薬も」
「クリニックも」
佐藤は少し身を乗り出した。
「じゃあ、どうでした?」
トモユキは考えた。
言葉を慎重に選ぶ。
「人によります」
正直な答えだった。
佐藤は少し困った顔をした。
「ですよね」
トモユキは続けた。
「効く人もいます」
「でも」
佐藤が顔を上げる。
「焦って決めると、疲れます」
その言葉は静かだった。
だが、佐藤はじっと聞いている。
トモユキは少しだけ笑った。
「僕、昔それで疲れました」
佐藤は何も言わない。
スマートフォンの画面には、まだ強い言葉が並んでいる。
「完全復活」
「確実」
「未来の髪」
トモユキはその画面を見て、ふと思った。
広告はいつも強い。
人が不安なときほど、強い言葉は響く。
佐藤はスマートフォンをポケットにしまった。
少し考えている様子だった。
「でも」
と佐藤は言った。
「一回くらい、相談だけでも行ってみようかなって思ってます」
トモユキは頷いた。
「それはいいと思います」
佐藤は驚いた顔をした。
「止めないんですか」
トモユキは笑った。
「止める理由はないです」
少し間を置く。
「ただ」
佐藤が顔を上げる。
「全部をそこに賭けない方がいいと思います」
佐藤はゆっくり頷いた。
その表情には、まだ迷いがある。
だが、昨日までの焦りとは少し違っていた。
何かを決める前の、静かな迷いだった。
午後、仕事に戻るとフロアはいつもの音に満ちていた。
キーボード。
電話。
プリンター。
日常の音。
トモユキは資料を作りながら思った。
人は、髪のためにいろんな道を探す。
薬。
習慣。
医療。
どれも間違いではない。
ただ、一つだけ難しいことがある。
それは。
どこまで希望を持つか。
そして、どこで現実と折り合いをつけるか。
その境界線は、人によって違う。
トモユキはふと横を見た。
佐藤はパソコンに向かっている。
だが、机の端にはメモが置かれていた。
そこには小さく書かれている。
「土曜 相談」
トモユキはその文字を見て、何も言わなかった。
ただ、静かに思った。
もしかしたら。
土曜日のあとで、この物語はまた少し動くかもしれない。
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