月曜日の朝だった。
週末が終わり、会社のフロアには少し重たい空気が流れている。
誰もがまだ完全には仕事のリズムに戻っていない。
トモユキが席に着くと、佐藤はすでに来ていた。
パソコンを立ち上げているが、画面はまだログイン画面のままだった。
椅子に座ったまま、少しぼんやりしている。
「おはよう」
トモユキが声をかけると、佐藤ははっとしたように顔を上げた。
「おはようございます」
少し眠そうな声だった。
トモユキはそれ以上聞かなかった。
だが、心の中では分かっていた。
土曜日の「相談」が終わったのだ。
午前の仕事は静かに進んだ。
メールを整理し、資料を確認し、簡単な打ち合わせをこなす。
日常の仕事のリズムが戻ってくる。
昼休みが近づいたころ、佐藤が小さく言った。
「トモユキさん」
声は控えめだった。
「このあと、少し時間いいですか」
トモユキは頷いた。
昼休みになると、二人はビルの外に出た。
少し離れた公園のベンチに座る。
空は薄い青色で、雲がゆっくり流れている。
佐藤はコンビニのコーヒーを持ったまま、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐いた。
「行ってきました」
トモユキは頷く。
「クリニック?」
「はい」
佐藤は苦笑した。
「なんか、すごかったです」
トモユキは黙って聞いた。
佐藤はゆっくり話し始めた。
「ビルの中にあるんですけど、すごく綺麗で」
「受付もホテルみたいで」
「待合室に人も結構いました」
少し考えるように目を細める。
「年齢もバラバラでした」
「俺より若そうな人もいたし」
「たぶん四十代くらいの人もいて」
コーヒーを一口飲む。
「みんな、同じ感じでした」
「どんな感じ?」
トモユキが聞く。
佐藤は少し考えた。
「静かでした」
それだけ言った。
その言葉の意味は、トモユキにもなんとなく分かった。
同じ場所にいても、
誰もお互いを見ない空気。
それぞれが、自分の頭のことだけを考えている場所。
佐藤は続けた。
「カウンセリング受けて」
「頭の写真も撮られて」
「説明もいっぱいされました」
手で空中に四角い形を作る。
「薬があって」
「飲み薬と、塗るやつ」
「あと、もっと強い治療もあるって」
トモユキは静かに聞いていた。
佐藤は少し笑った。
「なんか、未来の話みたいでした」
「未来?」
「はい」
佐藤は遠くを見た。
「半年後はこうなるかもしれません、とか」
「一年後にはここまで改善する可能性があります、とか」
少し間を置く。
「全部、“可能性”なんですけど」
風が少し吹いた。
公園の木が小さく揺れる。
佐藤はコーヒーのカップを見つめながら言った。
「正直、ちょっと期待しました」
その言葉は素直だった。
トモユキは否定しなかった。
「でも」
佐藤は続けた。
「ちょっと怖くもなりました」
トモユキはゆっくり顔を向けた。
佐藤は苦笑する。
「なんか、全部が“髪中心の人生”になりそうで」
その言葉は静かだった。
「毎日薬飲んで」
「副作用気にして」
「鏡見て」
「変化をチェックして」
少しだけ肩をすくめる。
「それが悪いってわけじゃないんですけど」
トモユキは頷いた。
「どうすることにしたんですか」
佐藤は少し考えた。
そして言った。
「まだ決めてないです」
その表情には、土曜日の前とは違う落ち着きがあった。
焦りだけではなく、
少しだけ距離ができている。
佐藤は続けた。
「でも」
「一つだけ分かったことがあります」
トモユキは待った。
佐藤はゆっくり言った。
「俺、めちゃくちゃ怖がってたんだなって」
トモユキは何も言わない。
佐藤は空を見た。
「まだほとんど変わってないのに」
「将来の自分を想像して」
「勝手に焦って」
少し笑う。
「なんか、昨日それに気づきました」
トモユキは静かに言った。
「それ、結構大事な気づきだと思います」
佐藤は頷いた。
二人の間に、少し穏やかな空気が流れた。
遠くで子どもがボールを蹴る音が聞こえる。
昼休みの静かな時間だった。
佐藤は立ち上がりながら言った。
「とりあえず」
「もう少し考えます」
「急がなくてもいいかなって」
トモユキも立ち上がった。
会社へ戻る道を歩きながら、トモユキは思った。
土曜日の待合室には、
きっと多くの人が座っている。
それぞれ違う人生で、
同じ悩みを抱えて。
そして、その多くは
誰にも話さない。
トモユキはふと横を見た。
佐藤は少しだけ背筋を伸ばして歩いている。
もしかしたら。
彼は今、
「薄毛の未来」を考える段階から、
「自分の今」を見る段階に移り始めているのかもしれない。
それは、ゆっくりした変化だった。
だが確かに、物語はまた一歩進んでいた。
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