第62話 「土曜日の待合室」

月曜日の朝だった。

週末が終わり、会社のフロアには少し重たい空気が流れている。
誰もがまだ完全には仕事のリズムに戻っていない。

トモユキが席に着くと、佐藤はすでに来ていた。

パソコンを立ち上げているが、画面はまだログイン画面のままだった。
椅子に座ったまま、少しぼんやりしている。

「おはよう」

トモユキが声をかけると、佐藤ははっとしたように顔を上げた。

「おはようございます」

少し眠そうな声だった。

トモユキはそれ以上聞かなかった。
だが、心の中では分かっていた。

土曜日の「相談」が終わったのだ。

午前の仕事は静かに進んだ。

メールを整理し、資料を確認し、簡単な打ち合わせをこなす。
日常の仕事のリズムが戻ってくる。

昼休みが近づいたころ、佐藤が小さく言った。

「トモユキさん」

声は控えめだった。

「このあと、少し時間いいですか」

トモユキは頷いた。

昼休みになると、二人はビルの外に出た。
少し離れた公園のベンチに座る。

空は薄い青色で、雲がゆっくり流れている。

佐藤はコンビニのコーヒーを持ったまま、しばらく何も言わなかった。

それから、小さく息を吐いた。

「行ってきました」

トモユキは頷く。

「クリニック?」

「はい」

佐藤は苦笑した。

「なんか、すごかったです」

トモユキは黙って聞いた。

佐藤はゆっくり話し始めた。

「ビルの中にあるんですけど、すごく綺麗で」

「受付もホテルみたいで」

「待合室に人も結構いました」

少し考えるように目を細める。

「年齢もバラバラでした」

「俺より若そうな人もいたし」

「たぶん四十代くらいの人もいて」

コーヒーを一口飲む。

「みんな、同じ感じでした」

「どんな感じ?」

トモユキが聞く。

佐藤は少し考えた。

「静かでした」

それだけ言った。

その言葉の意味は、トモユキにもなんとなく分かった。

同じ場所にいても、
誰もお互いを見ない空気。

それぞれが、自分の頭のことだけを考えている場所。

佐藤は続けた。

「カウンセリング受けて」

「頭の写真も撮られて」

「説明もいっぱいされました」

手で空中に四角い形を作る。

「薬があって」

「飲み薬と、塗るやつ」

「あと、もっと強い治療もあるって」

トモユキは静かに聞いていた。

佐藤は少し笑った。

「なんか、未来の話みたいでした」

「未来?」

「はい」

佐藤は遠くを見た。

「半年後はこうなるかもしれません、とか」

「一年後にはここまで改善する可能性があります、とか」

少し間を置く。

「全部、“可能性”なんですけど」

風が少し吹いた。

公園の木が小さく揺れる。

佐藤はコーヒーのカップを見つめながら言った。

「正直、ちょっと期待しました」

その言葉は素直だった。

トモユキは否定しなかった。

「でも」

佐藤は続けた。

「ちょっと怖くもなりました」

トモユキはゆっくり顔を向けた。

佐藤は苦笑する。

「なんか、全部が“髪中心の人生”になりそうで」

その言葉は静かだった。

「毎日薬飲んで」

「副作用気にして」

「鏡見て」

「変化をチェックして」

少しだけ肩をすくめる。

「それが悪いってわけじゃないんですけど」

トモユキは頷いた。

「どうすることにしたんですか」

佐藤は少し考えた。

そして言った。

「まだ決めてないです」

その表情には、土曜日の前とは違う落ち着きがあった。

焦りだけではなく、
少しだけ距離ができている。

佐藤は続けた。

「でも」

「一つだけ分かったことがあります」

トモユキは待った。

佐藤はゆっくり言った。

「俺、めちゃくちゃ怖がってたんだなって」

トモユキは何も言わない。

佐藤は空を見た。

「まだほとんど変わってないのに」

「将来の自分を想像して」

「勝手に焦って」

少し笑う。

「なんか、昨日それに気づきました」

トモユキは静かに言った。

「それ、結構大事な気づきだと思います」

佐藤は頷いた。

二人の間に、少し穏やかな空気が流れた。

遠くで子どもがボールを蹴る音が聞こえる。

昼休みの静かな時間だった。

佐藤は立ち上がりながら言った。

「とりあえず」

「もう少し考えます」

「急がなくてもいいかなって」

トモユキも立ち上がった。

会社へ戻る道を歩きながら、トモユキは思った。

土曜日の待合室には、
きっと多くの人が座っている。

それぞれ違う人生で、
同じ悩みを抱えて。

そして、その多くは
誰にも話さない。

トモユキはふと横を見た。

佐藤は少しだけ背筋を伸ばして歩いている。

もしかしたら。

彼は今、
「薄毛の未来」を考える段階から、
「自分の今」を見る段階に移り始めているのかもしれない。

それは、ゆっくりした変化だった。

だが確かに、物語はまた一歩進んでいた。