水曜日の午後だった。
フロアには少しゆるい空気が流れている。
昼食後の時間で、誰もが少しだけ眠そうだ。
トモユキはパソコンの画面に向かいながら、資料の数字を確認していた。
数字を一つずつ見直していると、自然と周囲の音が遠くなる。
そのとき、隣から小さな声が聞こえた。
「やっぱり、ちょっと上がってますよね」
佐藤だった。
トモユキが顔を上げると、佐藤はスマートフォンを鏡代わりにして生え際を見ている。
「光の加減じゃないですか」
トモユキが言うと、佐藤は苦笑した。
「それ、最近よく自分にも言ってます」
そのやり取りを聞いて、中村が椅子を少し回した。
「またその話?」
笑いながら言う。
「いや、気になるんですよ」
佐藤は少し照れたように頭をかいた。
中村は自分の髪を軽く触った。
「俺も昨日風呂で数えちゃった」
「何を?」
佐藤が聞く。
「抜け毛」
三人とも少し笑った。
そのときだった。
「……え?」
小さな声が後ろから聞こえた。
三人が振り向くと、そこに立っていたのは総務の女性社員、山本だった。
コピー用紙の束を抱えたまま、少し驚いた顔をしている。
どうやら、さっきの会話を聞いてしまったらしい。
一瞬、空気が止まった。
佐藤の顔が一気に赤くなる。
中村は「やばい」という顔をした。
トモユキは特に表情を変えなかった。
山本は少し戸惑ったように笑った。
「すみません、聞こえちゃって」
コピー用紙を机に置きながら続ける。
「なんか、意外でした」
中村が聞き返す。
「何がですか?」
山本は少し考えてから言った。
「男性って、そういう話あんまりしないイメージだったので」
佐藤は完全に固まっていた。
中村は笑ってごまかす。
「いやー、まあ雑談ですよ」
山本は軽く首を振った。
「でも、ちょっと分かります」
その言葉に三人とも少し驚いた。
山本は続けた。
「女性もありますよ」
「何がですか」
中村が聞く。
山本は自分の髪を軽く触った。
「髪の悩み」
その言葉はとても自然だった。
「薄くなるとかじゃなくても」
「ボリュームとか」
「抜け毛とか」
少し笑う。
「あと、白髪とか」
中村は「なるほど」と頷いた。
佐藤も少し緊張が解けた顔をした。
山本は続ける。
「だから、なんか」
「普通に話してるの、ちょっといいなって思いました」
トモユキは静かに聞いていた。
山本はコピー用紙を整えながら言った。
「隠すより、健康的というか」
中村が笑う。
「健康的な薄毛ですか」
山本も笑った。
「言い方はちょっと難しいですけど」
そのとき、遠くで電話が鳴った。
山本は「あ、すみません」と言って席へ戻っていった。
三人は少しだけ沈黙した。
最初に口を開いたのは中村だった。
「なんか」
椅子に座り直す。
「思ったより普通の反応だった」
佐藤は深く頷いた。
「俺、めちゃくちゃ恥ずかしかったです」
トモユキは少し笑った。
「分かります」
佐藤は頭をかいた。
「でも」
少し考えてから続ける。
「なんか、ちょっと楽になりました」
その言葉は小さかったが、本音だった。
トモユキはパソコンの画面に視線を戻した。
仕事の画面の数字はさっきと同じだ。
だが、空気は少し変わっている。
つい数週間前まで、薄毛の話は完全に個人的なものだった。
鏡の前だけの問題。
誰にも言わない問題。
それが今、ほんの少しだけ、雑談になり始めている。
それは解決ではない。
髪が増えたわけでもない。
でも、確かに何かが変わっていた。
トモユキはふと思った。
もしかしたら。
薄毛というのは、
髪の問題だけではないのかもしれない。
それは、人がどこまで自分の弱さを話せるかという問題なのかもしれない。
隣で佐藤が言った。
「トモユキさん」
「はい」
「なんか」
少し笑う。
「この会社、思ったより優しいですね」
トモユキは画面を見たまま答えた。
「たぶん」
少し間を置く。
「人が優しいんですよ」
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