第65話 「社内メール」

木曜日の朝だった。

会社のフロアには、いつものようにキーボードの音が広がっている。
誰もが自分の仕事に入り始める時間だ。

トモユキはコーヒーを机に置き、パソコンを開いた。
メールの受信箱には、いくつかの社内連絡が並んでいる。

その中に一つ、見慣れない件名があった。

「社内健康セミナーのお知らせ」

総務からの一斉メールだった。

トモユキは何気なくクリックした。

画面に表示されたのは、来月開催される健康セミナーの案内だった。

内容はよくあるものだ。

「睡眠改善」
「運動習慣」
「食生活」

だが、途中の一行でトモユキの目が止まった。

「頭皮環境とヘアケア」

ほんの短い項目だった。

トモユキは思わず少しだけ笑った。

その瞬間、隣から声がした。

「どうしました?」

佐藤だった。

トモユキは画面を指さした。

「これ」

佐藤はモニターを覗き込んだ。

数秒後、目が少し大きくなる。

「え」

それだけ言った。

さらに数秒。

佐藤はゆっくり椅子に座り直した。

「タイミングすごくないですか」

トモユキは肩をすくめた。

「たまたまでしょう」

そのとき、後ろから椅子の音がした。

中村が振り向いている。

「何の話?」

佐藤は苦笑しながら画面を見せた。

中村はメールを読み、途中で声を出した。

「あ」

そして、少し笑った。

「マジか」

三人の間に微妙な沈黙が生まれる。

中村が腕を組んだ。

「これ」

「参加するやついるのかな」

佐藤がすぐに言った。

「いるんじゃないですか」

中村は笑う。

「いや、絶対気まずいでしょ」

「頭皮セミナーって」

その言葉に佐藤も笑った。

「確かに」

トモユキはメールをもう一度見た。

「専門の講師を招いて」

「正しいケア方法を紹介します」

そんな文章が並んでいる。

中村が言った。

「これさ」

「参加したら負けな気がする」

佐藤はすぐに反応した。

「何の勝ち負けですか」

中村は少し考えた。

「なんか」

「認めた感じ」

その言葉を聞いて、三人とも少し黙った。

その感覚は、どこか分かる。

トモユキは静かに言った。

「でも」

二人がこちらを見る。

「知識はあった方がいいですよ」

中村は笑う。

「いやー」

「トモユキさんはもうベテランだから言えるんですよ」

佐藤も笑った。

「ベテランって言い方」

トモユキは苦笑した。

そのとき、遠くの席から山本の声が聞こえた。

「見ました?」

どうやら別の社員とメールの話をしているようだった。

「健康セミナー」

「私ちょっと興味あります」

その会話が小さくフロアに広がる。

中村が小声で言った。

「女性は普通に行くんだろうな」

佐藤は少し考えるように言った。

「逆に、男の方が気にしてるのかもしれませんね」

トモユキはその言葉を聞いて、少しだけ考えた。

確かにそうかもしれない。

女性は髪のケアを普通に話題にする。
美容院、トリートメント、カラー。

だが男性は違う。

髪の話になると、急に言葉が減る。

トモユキはメールの最後の行を見た。

「希望者は参加申請をしてください」

締切は来週だった。

佐藤が小さく言った。

「どうします?」

中村はすぐ答えた。

「俺は様子見」

佐藤は苦笑する。

「様子見って」

トモユキは画面を閉じた。

まだ決めていない。

ただ一つだけ思った。

もしこのセミナーに参加する人がいたら、そこにはきっといろんな人が集まる。

まだ悩み始めた人。
長く向き合っている人。
ただ興味がある人。

同じ部屋で、同じ話を聞く。

それは少し不思議な光景になるかもしれない。

隣で佐藤が言った。

「もし」

トモユキを見る。

「もしトモユキさんが行くなら」

少し笑う。

「俺も行きます」

中村がすぐに言った。

「巻き込むなよ」

三人とも笑った。

フロアにはいつもの仕事の音が戻っている。

だがトモユキは思った。

ほんの少し前まで、薄毛の話は完全に個人のものだった。

それが今、雑談になり、
そして今度は、会社のイベントになろうとしている。

問題は同じなのに、形だけが少しずつ変わっていく。

トモユキはパソコンの画面を開き直した。

メールはまだ受信箱に残っている。

参加ボタンは、まだ押されていない。