第69話 「古い集合写真」

翌週の火曜日、昼過ぎだった。

昼休みが終わり、フロアには少しだけ静かな空気が戻っていた。
食後の時間は、どうしても仕事のペースがゆっくりになる。

キーボードを打つ音はしているが、どこか眠気を含んだ音だ。

佐藤は資料の修正をしていた。
数字を一つ直し、文章を少し整える。

だが集中は長く続かなかった。

ふと視線が画面から離れる。
指が止まる。

気づくと、右手が無意識に頭へ向かっていた。

生え際。

指先が軽く触れる。

「……」

何も言わないが、少しだけ苦笑した。

最近、この動作が増えている。

完全に癖だ。

そのときだった。

後ろから声がした。

「佐藤くん」

振り向くと、総務の山本が立っていた。

両手にファイルを抱えている。

「はい?」

山本は少し困った顔をしていた。

「ちょっと手伝ってもらってもいい?」

「何ですか?」

「倉庫の整理」

そう言って苦笑する。

「昔の資料が多すぎて」

佐藤は椅子から立ち上がった。

「いいですよ」

「助かる」

二人はフロアの奥へ歩いていった。

オフィスのさらに奥に、小さな資料室がある。

普段はあまり人が入らない場所だ。

ドアを開けると、少しだけ古い紙の匂いがした。

棚が並び、段ボール箱が積まれている。

山本が言った。

「この辺なんだけど」

一番奥の棚を指さす。

「古い社内イベントの資料とか」

佐藤は箱を一つ持ち上げた。

思ったより重い。

「これですか」

「そうそう」

二人で段ボールをテーブルに置く。

蓋を開けると、中にはクリアファイルが大量に入っていた。

山本は一つずつ確認しながら言う。

「古いのは処分する予定なの」

「なるほど」

佐藤は隣でファイルを取り出す。

社内報。
イベントの案内。
写真。

いろんな紙が混ざっている。

その中に、一枚の大きな写真があった。

厚めの紙に印刷された集合写真。

佐藤はそれを手に取った。

「これ」

山本が覗き込む。

「ああ」

少し笑う。

「だいぶ前の社員旅行」

写真には大勢の人が写っていた。

たぶん三十人以上。

海辺のような場所で、みんな笑っている。

服装を見ると、かなり昔の写真だと分かる。

佐藤はなんとなく、写真をじっと見た。

知らない顔ばかり。

若い人もいれば、年配の人もいる。

そのとき、あることに気づいた。

写っている男性の中に、薄毛の人が何人もいる。

頭頂部がはっきり見える人。

額がかなり広い人。

完全に髪がない人。

だが、全員笑っている。

自然に。

楽しそうに。

佐藤は少しだけ見入っていた。

そのとき山本が言った。

「あ」

指をさす。

「この人」

佐藤が見る。

写真の中央付近。

そこに写っている男性。

笑顔で腕を組んでいる。

髪はかなり薄い。

だが、その顔はどこか見覚えがあった。

佐藤は少し目を細めた。

「……あれ?」

山本が言った。

「分かる?」

佐藤はゆっくり言った。

「もしかして」

「田島さん?」

山本は頷いた。

「そう」

少し笑う。

「若いでしょ」

佐藤は写真をもう一度見た。

確かに田島だ。

今より少し若いが、顔は同じ。

そしてその頭。

すでにかなり薄い。

今とほとんど変わらない。

佐藤は驚いた。

「え」

思わず声が出る。

「これ、いつの写真ですか」

山本はファイルのメモを見る。

「えーと……」

少し探してから言った。

「十二年前」

佐藤は写真を見つめた。

十二年前。

つまり。

田島はその頃から、すでにこの状態だった。

なのに。

あの人は今、あんなふうに笑っている。

仕事も普通にしている。

堂々としている。

佐藤は不思議な気持ちになった。

時間が急に長く感じられた。

十二年。

自分はまだ、気づいて数ヶ月だ。

そのとき山本が言った。

「田島さん、昔からああだよ」

「え?」

「堂々としてるの」

山本は笑った。

「入社した頃から、普通にネタにしてた」

佐藤は驚いた。

「そうなんですか」

「うん」

山本は続けた。

「でもね」

少し懐かしそうな顔になる。

「最初からそうだったわけじゃないみたい」

佐藤は顔を上げた。

「え?」

山本は写真を見ながら言った。

「昔聞いたことあるんだけど」

「若い頃は結構悩んでたらしいよ」

佐藤は写真の中の田島を見つめた。

海辺。

笑顔。

腕を組んでいる。

その姿は、とても自然だった。

山本は言った。

「でもある日、急に変わったんだって」

「変わった?」

「うん」

山本は少し首をかしげる。

「何があったかまでは知らないけど」

「ある年から急に」

「堂々とするようになった」

佐藤は何も言えなかった。

写真をじっと見ている。

十二年前の田島。

今の田島。

時間は流れている。

だが、その人はちゃんとそこにいる。

消えていない。

変わっていない。

佐藤はふと、自分の未来を想像した。

十年後。

二十年後。

そのとき、自分はどうしているだろう。

髪はどうなっているだろう。

そして。

自分は笑っているだろうか。

山本が言った。

「それ、どうする?」

写真を指さす。

「一応、保管しておく?」

佐藤は少し考えた。

そして言った。

「残しておきましょう」

山本は頷いた。

「そうだね」

写真はファイルに戻された。

だがその瞬間、佐藤の頭の中には、あの笑顔が残っていた。

堂々とした笑顔。

十二年前から変わらない人。

佐藤は思った。

未来は怖い。

だが。

もしかしたら。

その未来の中には、思っているより普通の時間が流れているのかもしれない。

倉庫の蛍光灯の下で、佐藤は静かに写真の箱を閉じた。

その夜、トモユキはある古いメッセージを思い出していた。