美容院で髪を整えてからの数日間、トモユキはまるで新しい世界を歩いているようだった。
鏡に映る自分は、確かに以前より精悍で、どこか柔らかい光をまとっているように見えた。
電車の窓、オフィスビルの自動ドア、喫茶店のステンレスのポット。
以前なら避けていた反射する面に、今は自然と視線を向けられた。
その度に「悪くない」と心の中で小さく頷き、胸の奥に自信が芽生えていくのを感じていた。
だが、その芽は、ある水曜日の午後に踏みつぶされる。
会議が終わり、椅子から立ち上がった瞬間、同僚の佐々木が笑いながら近づいてきた。
「おい、トモユキ。さっきの会議室、ライトの位置が悪かったな」
何の話かと問い返す前に、佐々木は自分の頭頂部を指差し、
「後ろから光がガンガン当たってさ、頭のてっぺんがピカって見えてたぞ。いや、悪気はないんだよ?でもさ、ちょっと眩しいくらいで」
その声には、悪意はなかった。軽い冗談のつもりだったのだろう。
しかし、トモユキには、その笑いが遠くから響くように聞こえた。
まるで中学の教室で、誰かにからかわれたときのあの感覚。
背中に冷たいものが走り、喉の奥がひゅっと縮まる。
笑い返そうとしても、口角は上がらなかった。
デスクに戻り、モニターを消すと、黒い画面に自分の頭が映った。
そこには、確かに地肌が光を跳ね返している姿があった。
美容師が言ってくれた「薄毛は隠すんじゃなくて、魅せるんですよ」という言葉が、今は皮肉のように胸を刺す。
帰宅の途中、ガラス張りのビルを横切る。
街灯の真下を通ったとき、視界の端に、自分の頭頂部が白く浮かび上がるのが見えた。
足が止まり、息が浅くなる。
「まただ…」
ライトの下では、いくら髪を整えても、光の鋭さに抗えない。
その夜、風呂上がりにドライヤーを手にしながら、トモユキは鏡の前で何度も頭を動かした。
前から、横から、後ろから。
明かりが変わるたびに、地肌が見える範囲が変わっていく。
「この角度から見られたら…」
考えは止まらない。やがて、「全方位からの光」を想像するだけで胸がざわつく。
眠れない夜、スマートフォンを手に取り、検索を始めた。
「薄毛 ライト 目立たない」
「会議室 照明 頭皮」
「LED 反射 抑える方法」
どの記事も断片的で、どこか冷たい。
「光は隠せない」という言葉が、スクリーンの奥から静かに響いてくるように思えた。
翌朝、会社に向かう足取りは重かった。
エレベーターの天井にもライトがある。
その下に立つと、自分の頭頂部が強調されているような錯覚に陥る。
会議室に入るときは、なるべく壁際に座ろうとした。
だがそれでも、照明は容赦なく降り注ぐ。
「光は、敵だ」
そう思った瞬間、自分の思考が極端に傾いているのを感じた。
しかし、それを止めることはできない。
心の奥に「光を避けなければ」という強迫観念が芽生え、それは日に日に大きく育っていく。
ある晩、コンビニの明るい照明の下で、飲み物を手に取ったとき、ふと視線を感じた。
レジの女性が、ほんの一瞬だけ彼の頭を見た気がしたのだ。
それが偶然かどうかは分からない。
だが、トモユキはその視線を「確信」に変えてしまう。
「やっぱり見られている」
その日から、街灯の下を歩くときは、帽子を深くかぶるようになった。
エレベーターでは天井を見ない。
会議では、ノートPCの画面を自分とライトの間に置く。
そうして日々の行動が、光を避けるために形作られていく。
しかし、避ければ避けるほど、光の存在は強くなる。
光はどこにでもあり、逃げ場はない。
それに気づいたとき、トモユキは初めて、自分の中に生まれた恐怖が、髪そのものよりも大きな影を落としていることを知った。
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