その夜、トモユキは珍しく仕事を早く終えた。
会社を出ると、空気は少し冷えていた。
春が近づいているはずなのに、夜になるとまだ冬の名残が残っている。
駅まで歩く途中、信号待ちでふとガラスに自分の姿が映った。
街灯の光。
通り過ぎる車のヘッドライト。
その中に、ぼんやりと自分の顔が浮かぶ。
額。
トモユキは一瞬だけそこを見た。
そしてすぐに視線を外した。
昔なら、もう少し長く見ていただろう。
角度を変えたり、髪を触ったりして。
だが今は、そこまで長く見ない。
それでも、完全に気にしないわけではない。
それが今の自分だと、トモユキは思っている。
電車に乗り、家に帰る。
玄関のドアを開けると、静かな部屋が迎えた。
ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す。
テーブルの上には、昨日読んでいた本が置かれている。
だが今日は、なぜか読む気にならなかった。
ソファに座り、スマートフォンを手に取る。
何となくニュースを見て、SNSを流し見する。
気づくと、古いメッセージの画面を開いていた。
連絡先の一覧。
上から順に名前が並んでいる。
仕事の関係者。
大学の友人。
昔の知り合い。
トモユキは無意識にスクロールしていた。
そして、ある名前で指が止まった。
「高橋」
大学時代の友人だ。
卒業してから何度か会ったが、ここ数年は連絡を取っていない。
最後のメッセージは、かなり前だった。
トモユキはなんとなく、その会話を開いた。
画面には短い文章が並んでいる。
「久しぶり」
「今度飲もう」
「仕事どう?」
よくあるやり取り。
だが、スクロールしていくうちに、あるメッセージが目に入った。
日付は八年前。
トモユキはその文章を見て、少しだけ記憶を探った。
あの日は、大学の友人たちと久しぶりに集まった日だった。
居酒屋の個室。
酒を飲みながら、近況を話していた。
そのとき、高橋が突然言った。
「トモユキさ」
笑いながら。
「お前、昔より額広くなった?」
その言葉で、周りが笑った。
悪意はなかった。
本当にただの冗談だった。
トモユキも笑った。
「気のせいだろ」
そう言って、話題はすぐ別の方向へ流れた。
だが、その帰り道。
トモユキはコンビニのガラスに映った自分を見た。
街灯の光の中で、額を確認した。
そして、少しだけ胸がざわついた。
スマートフォンの画面に戻る。
そのとき、高橋から一通のメッセージが届いていた。
それが、今トモユキの目に止まっている文章だった。
「さっきの冗談、気にしてたらごめん」
その下に続く文章。
「でもさ」
「トモユキは昔からそういうの気にしすぎるタイプだから」
「多分大丈夫だと思うけど」
「もし気にしてるなら、あんまり考えすぎるなよ」
トモユキは、その文章をゆっくり読んだ。
当時は軽く返事をしただけだった。
「気にしてないよ」
それだけ。
だが実際は、少し気にしていた。
それから何度も鏡を見た。
ネットで検索もした。
トモユキはスマートフォンをテーブルに置いた。
そして小さく笑った。
あの頃は、誰かの一言で簡単に揺れていた。
今も完全に変わったわけではない。
だが、少し違う。
トモユキは洗面所へ行った。
鏡の前に立つ。
そこには、今の自分がいる。
昔より広くなった額。
だが、それはもう驚くようなものではない。
ただの現実だ。
トモユキは思った。
人は、何度も同じことを経験する。
誰かの一言。
鏡の前の違和感。
将来の想像。
それが何度も繰り返される。
だが、そのたびに少しずつ変わる。
受け止め方が。
重さが。
意味が。
トモユキは蛇口をひねり、手を洗った。
水の音が静かに響く。
そのとき、ふと思い出した。
今日、佐藤はどんな顔をしていただろう。
昼間のフロア。
佐藤はいつもより少し考え込んでいるように見えた。
もしかしたら。
何かあったのかもしれない。
トモユキはタオルで手を拭いた。
そして、もう一度スマートフォンを手に取る。
メッセージ画面。
高橋の名前。
しばらく考えたあと、トモユキは短い文章を打った。
「久しぶり」
送信ボタンを押す。
画面が静かに切り替わる。
すぐに返信が来るわけではない。
だが、不思議と気持ちは軽かった。
人は、時間と一緒に変わる。
悩みも。
考え方も。
そして、髪も。
トモユキは部屋の電気を少し暗くした。
窓の外では、夜の街が静かに動いている。
そしてその頃。
会社では、佐藤が昼間に見た「ある写真」のことを、まだ考えていた。
その写真に写っていた人物の笑顔を。
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