第70話 「忘れていたメッセージ」

その夜、トモユキは珍しく仕事を早く終えた。

会社を出ると、空気は少し冷えていた。
春が近づいているはずなのに、夜になるとまだ冬の名残が残っている。

駅まで歩く途中、信号待ちでふとガラスに自分の姿が映った。

街灯の光。
通り過ぎる車のヘッドライト。

その中に、ぼんやりと自分の顔が浮かぶ。

額。

トモユキは一瞬だけそこを見た。

そしてすぐに視線を外した。

昔なら、もう少し長く見ていただろう。
角度を変えたり、髪を触ったりして。

だが今は、そこまで長く見ない。

それでも、完全に気にしないわけではない。

それが今の自分だと、トモユキは思っている。

電車に乗り、家に帰る。

玄関のドアを開けると、静かな部屋が迎えた。

ジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す。

テーブルの上には、昨日読んでいた本が置かれている。

だが今日は、なぜか読む気にならなかった。

ソファに座り、スマートフォンを手に取る。

何となくニュースを見て、SNSを流し見する。

気づくと、古いメッセージの画面を開いていた。

連絡先の一覧。

上から順に名前が並んでいる。

仕事の関係者。
大学の友人。
昔の知り合い。

トモユキは無意識にスクロールしていた。

そして、ある名前で指が止まった。

「高橋」

大学時代の友人だ。

卒業してから何度か会ったが、ここ数年は連絡を取っていない。

最後のメッセージは、かなり前だった。

トモユキはなんとなく、その会話を開いた。

画面には短い文章が並んでいる。

「久しぶり」
「今度飲もう」
「仕事どう?」

よくあるやり取り。

だが、スクロールしていくうちに、あるメッセージが目に入った。

日付は八年前。

トモユキはその文章を見て、少しだけ記憶を探った。

あの日は、大学の友人たちと久しぶりに集まった日だった。

居酒屋の個室。

酒を飲みながら、近況を話していた。

そのとき、高橋が突然言った。

「トモユキさ」

笑いながら。

「お前、昔より額広くなった?」

その言葉で、周りが笑った。

悪意はなかった。

本当にただの冗談だった。

トモユキも笑った。

「気のせいだろ」

そう言って、話題はすぐ別の方向へ流れた。

だが、その帰り道。

トモユキはコンビニのガラスに映った自分を見た。

街灯の光の中で、額を確認した。

そして、少しだけ胸がざわついた。

スマートフォンの画面に戻る。

そのとき、高橋から一通のメッセージが届いていた。

それが、今トモユキの目に止まっている文章だった。

「さっきの冗談、気にしてたらごめん」

その下に続く文章。

「でもさ」

「トモユキは昔からそういうの気にしすぎるタイプだから」

「多分大丈夫だと思うけど」

「もし気にしてるなら、あんまり考えすぎるなよ」

トモユキは、その文章をゆっくり読んだ。

当時は軽く返事をしただけだった。

「気にしてないよ」

それだけ。

だが実際は、少し気にしていた。

それから何度も鏡を見た。

ネットで検索もした。

トモユキはスマートフォンをテーブルに置いた。

そして小さく笑った。

あの頃は、誰かの一言で簡単に揺れていた。

今も完全に変わったわけではない。

だが、少し違う。

トモユキは洗面所へ行った。

鏡の前に立つ。

そこには、今の自分がいる。

昔より広くなった額。

だが、それはもう驚くようなものではない。

ただの現実だ。

トモユキは思った。

人は、何度も同じことを経験する。

誰かの一言。

鏡の前の違和感。

将来の想像。

それが何度も繰り返される。

だが、そのたびに少しずつ変わる。

受け止め方が。

重さが。

意味が。

トモユキは蛇口をひねり、手を洗った。

水の音が静かに響く。

そのとき、ふと思い出した。

今日、佐藤はどんな顔をしていただろう。

昼間のフロア。

佐藤はいつもより少し考え込んでいるように見えた。

もしかしたら。

何かあったのかもしれない。

トモユキはタオルで手を拭いた。

そして、もう一度スマートフォンを手に取る。

メッセージ画面。

高橋の名前。

しばらく考えたあと、トモユキは短い文章を打った。

「久しぶり」

送信ボタンを押す。

画面が静かに切り替わる。

すぐに返信が来るわけではない。

だが、不思議と気持ちは軽かった。

人は、時間と一緒に変わる。

悩みも。

考え方も。

そして、髪も。

トモユキは部屋の電気を少し暗くした。

窓の外では、夜の街が静かに動いている。

そしてその頃。

会社では、佐藤が昼間に見た「ある写真」のことを、まだ考えていた。

その写真に写っていた人物の笑顔を。