光を避ける生活は、最初は小さな工夫にすぎなかった。
会議室での座席を壁際に選ぶ、街灯の下を歩くときは帽子をかぶる。
ほんの少しの注意で、自分の心は守られる――そう思っていた。
しかし、日々はその小さな工夫を膨らませ、やがてそれは生活の中心を占めるようになっていった。
朝、カーテンを開けることがなくなった。
代わりに室内灯を控えめに点ける。柔らかいオレンジ色の明かりは、頭皮の輪郭を曖昧にしてくれる気がした。
洗面所のライトも半分だけにし、鏡に映る自分の頭頂部をできるだけ直視しないようにした。
「見なければ、なかったことになる」――そんな考えが、静かに、しかし確実に根を張っていく。
会社では、佐々木を避けるようになった。
彼に悪意はないのかもしれない。それでも、あの「ピカっとしてたぞ」という言葉は、今も耳の奥で反響している。
エレベーターで偶然乗り合わせそうになると、トモユキはスマホを取り出して歩みを遅らせ、別の便に乗った。
人の視線は、もはや光と同じくらい恐ろしい存在になっていた。
昼休み、同僚たちが誘ってくれるランチも断るようになった。
明るい店内の照明、ガラス窓から差し込む日差し、鏡のようなテーブルの天板――そうしたものすべてが、危険の兆候に見えた。
代わりに、トモユキは暗いビルの地下にある自販機コーナーで、ひとりコンビニおにぎりを食べた。
その静けさが、奇妙な安心感を与えてくれた。
家族との関係にも変化があった。
実家の母が週末に電話をかけてきて、「たまには顔を見せなさい」と言う。
だが、実家のリビングには天井からぶら下がる白色蛍光灯があることを思い出す。
あの無慈悲な白い光が、自分の頭頂部を照らす光景を想像するだけで、胸の奥がざわめいた。
「今は仕事が忙しくて…」と嘘をつき、電話を早々に切った。
光を避ける生活は、気づけば「人を避ける生活」になっていた。
影の中で過ごす時間は、確かに安心だった。
しかしその安心は、同時に静かな孤独の匂いを帯びていた。
そして孤独は、夜になると姿を変える。
その夜、暗い部屋で椅子に座り、スマホの画面だけが顔を照らしていた。
検索履歴には「薄毛 隠す方法」「照明 頭皮 反射」「LEDライト やめる」などの文字が並ぶ。
スクロールを続けても、完璧な答えは見つからない。
画面の向こうには、似た悩みを抱える人たちの書き込みが無数にあった。
「やっぱり照明は避けるしかない」
「夜型生活になった」
「人と会わなくなった」
それらの文章は、慰めであると同時に、自分が後戻りできない道に足を踏み入れた証のようにも思えた。
ふと、パソコンを立ち上げ、部屋の隅に置かれたスタンドライトを点けた。
柔らかい黄色の光が床をなめるように広がり、影を作る。
その影の中で、自分の頭頂部をそっと触る。
毛の感触は確かにある。だが、光があればそれは薄れ、影に沈めば際立つ。
髪の有無よりも、光と影の配置がすべてを決めてしまう――そんな考えが、頭の中を支配する。
翌日、トモユキはひとつの決断をした。
「昼間はできるだけ外に出ない」
在宅勤務の日はカーテンを閉め、外出は日が沈んでからにした。
スーパーに行くのも、夜9時を過ぎてから。
照明が暗めのバーを見つけては、そこに通うようになった。
バーテンダーの落ち着いた声と、ランプのほの暗い光が、彼を安心させた。
そこでは、自分が薄毛であることを忘れられるような気がした。
だが――
ある夜、そのバーで隣に座った見知らぬ男が、何気なく言った。
「この店、雰囲気はいいけど、上のライトがちょっと強いよな」
トモユキの心臓が、一瞬で跳ね上がる。
反射的に頭を手で覆い、その仕草が余計に目立つことに気づき、さらに視線を感じる。
光は、影の中にまで忍び込んでくる。
逃げ場は、やはりないのだ。
その夜、帰宅したトモユキは、鏡の前に立つことができなかった。
代わりに、部屋の隅に座り込み、暗闇に耳を澄ませた。
外では街灯が静かに輝いているはずだ。
その光がカーテンの隙間から差し込み、自分の頭を照らしているかもしれない――そう考えると、息が詰まりそうになった。
彼の世界は、少しずつ光から遠ざかり、同時に人からも遠ざかっていく。
そしてその影の中で、トモユキは知らず知らずのうちに、自分という存在を小さく畳み込んでいった。
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