第9話 視線の温度

午後二時過ぎのオフィスは、夏の蒸し暑さの名残をかすかに漂わせながらも、空調の効いた室内に沈黙が覆いかぶさっていた。窓の外の街路樹が、微風にそよぎ、柔らかい葉擦れの音がかすかに聞こえる。パソコンのファンの微かな唸り、コピー機の周期的な稼働音が、まるでオーケストラの弱音のように全体の空気を包み込んでいた。

トモユキは自分のデスクに向かい、書類の束を手にしていた。だが、その手はしばしば止まり、窓の向こうの曇り空をぼんやりと眺めるばかりだった。彼の意識は紙の文字や数字に集中しようとしながらも、なかなか定まらなかった。

それはまるで、頭の中に小さな囁きがずっと響いているかのようだった。

ふと、彼は自分の背後に何かを感じた。振り返ることなく、その「何か」の存在を察知したのだった。

(誰かが、俺を見ている――)

彼の心臓が一瞬だけ強く跳ね上がったが、呼吸を整え、わずかに背筋を伸ばす。彼は自分のこの「視線感覚」が、人の目にどれほど敏感になっているかを知っていた。

薄毛になってから、彼の感覚は研ぎ澄まされた。

小さな物音、人の目の動き、背後の気配――それらすべてが、彼の中で「危険信号」として鳴り響いていた。

その「視線」の持ち主は、営業部に最近配属された若い女性社員、美香だった。彼女は窓際のデスクに座り、コピー用紙を束ねながら、そっとこちらのほうを見ている。

彼女の瞳の奥に、何か特別なものが漂っているように見えた。

トモユキはその視線に戸惑いながらも、かすかな期待も感じていた。

(まさか、俺の頭を見ているのか?)

という恐怖と、

(もしかすると、俺に興味があるのかもしれない)

という希望が、彼の胸の中で激しくせめぎ合っていた。

午後の陽射しは徐々に傾き、オフィス内の明るさは柔らかな黄金色に変わっていった。
トモユキの視界には、書類の束とキーボードのキーが交互に映り込みながらも、彼の意識は美香の存在に囚われていた。

彼女の視線が、自分の頭頂部に向けられているという疑念は、もはや頭の中で消し去ることができない。

これまでに経験した恋愛の記憶が走馬灯のように蘇る。
かつて彼は若かった頃、誰かに見られることの意味を単純に「好意」だと受け取っていた。
だが今は違う。年齢も環境も、薄毛という現実も、すべてが複雑に絡み合い、その一瞬の視線に様々な解釈が生まれる。

「彼女は、どう思っているのだろう?」

自分の頭髪のことを気にしているのか、それとも気づいていないのか。
もしかすると、もっと別の理由で見ているのかもしれない。

トモユキは椅子を少しずつ回しながら、何気ないふりをして彼女の動きを見守った。
美香は書類を整理しながらも、何度かちらりと彼のほうを見た。
その度に彼の心臓はわずかに跳ねた。

「気のせいかもしれない」
そう自分に言い聞かせては、また揺れる。

同僚の間で交わされる何気ない会話にも敏感になる。
誰かが頭髪の話をしたわけではないのに、彼の耳はその言葉を探しているようだった。

午後の終わりが近づくにつれ、オフィスの空気は一層静まり返り、まるで彼の心の中の不安が周囲の静けさと共鳴しているかのようだった。

夕暮れの街に灯がともり始める頃、トモユキは会社を出た。
ビルのガラスには、空の色と街の光が交錯し、まるで別の世界を映し出しているかのようだった。

彼はふと、駅へ向かう途中のショーウィンドウに映る自分の姿に目を奪われた。
そこには、柔らかい街灯の光を浴びて、艶やかに反射する自分の頭頂部が映っている。

一瞬、息を呑む。
まるで自分が陶器のように光り輝いていると錯覚した。
そして、背後から足音が近づく気配を感じた。

振り返ると、美香がそこに立っていた。
「偶然ですね、トモユキさん」
彼女の声は落ち着いていて、どこか温かみがあった。

視線が、彼の頭頂部へと自然に滑っていく。
その瞳に、微かに含まれる何か。
からかいか、同情か、好意か――それは彼にとって、容易に見極められるものではなかった。

しかし、彼女は言葉を続けず、優しく微笑んだ。
その笑みは、曖昧な光をはらんでいて、トモユキの胸の中に小さな波紋を投げかけた。

「では、また明日」
そう言い残し、美香は静かに歩き去った。

トモユキはその場に立ち尽くし、まばたきを何度も繰り返した。
あの視線の意味は何だったのか――答えはまだわからなかった。
だが、その不確かな感情が、自分の心をゆっくりと解きほぐしていくのを感じた。

彼の中に、光と影が入り混じる新しい感覚が芽生え始めていた。