朝、目が覚めて最初に確認するのは、もうスマホの通知ではなく、枕になった。
まだ明けきらぬ薄明かりの中、トモユキは首をひねって、白い枕カバーの上をじっと見つめる。
そこにあるのは、細く、少しうねった髪の毛――1本、いや2本。
「……こんなもんか」
口に出してみると、余計に現実感が強まった。どこかで、“今日はマシだ”と安心しようとしていた。
洗面所に立ち、白い蛍光灯の下、トモユキは鏡に映る自分を見つめる。
額のライン、前髪の透け方。光の当たり具合で変わる地肌の存在感。
今日は、昨日よりもマシか? それとも少し進んでいるのか?
わからない。いや、本当は、わかっている。
だが「わからない」という曖昧な言葉に逃げ込むことで、なんとか自分を宙吊りにしているだけだ。
この曖昧さが、彼にとって唯一の“猶予”だった。
心の中では、いくつもの声が同時に鳴っていた。
「薄毛でもかっこいい人はたくさんいる」
「ジェイソン・ステイサムとかブルース・ウィリスとか……」
「いや、あれは“もともと強そう”な顔だから成立するんだ」
「それに比べて俺の顔は……地味で、輪郭も弱いし、眉も薄い……」
「スキンヘッドにすればいいじゃないか。潔くていい。ハゲ散らかすより、坊主にした方がいい」
「けど、スキンヘッドは勇気がいる。会社ではどうなる? 客先に行けるか?」
「それに、帽子を脱いだとき、誰が笑う?」
「“潔さ”という美徳を掲げるのは、結局“逃げ”なんじゃないか?」
「じゃあ育毛するか?」
「……でも、それは“足掻き”じゃないか? 足掻く姿って、一番かっこ悪いんじゃないか?」
そんな問いが、次々と浮かんでは消えていった。
髪を乾かすとき、ドライヤーの風が額に直接当たる瞬間が怖い。
髪の間をすり抜けて、頭皮がむき出しになっていくあの感覚。
「前はこんなに風を感じなかった」
そんな実感が、すべてを物語っている。
鏡を見て、前髪をめくってみる。
すると、地肌が帯状に現れる。
そのラインを目で追っていると、奇妙な地図を見ている気分になる。
“薄毛という国”が、少しずつ、静かに、自分の領土を侵食していく。
戦わずに占領されていく感覚。
「俺は、髪を失っているのか」
そう呟いたとき、突然、頭の中で別の声が応えた。
「違う、“自分の輪郭”を失っているんだ」
昼、外出先のカフェのトイレでも、彼は洗面所の鏡の前に立った。
そこで、自分の姿をふと「見るに堪えない」と思ってしまった瞬間があった。
それは、前髪のせいではない。
どこか、全体的に“弱って”見えたのだ。
髪が後退することで、自信や覇気までもが一緒に後退していくような錯覚。
「けれど、そんなこと気にしない人間も世の中にはいる」
「むしろ、そういう男が強いんだ。内面で勝負できる人間」
「髪に執着するほうが、弱いのかもしれない……」
だが、そう考えれば考えるほど、苦しかった。
頭では理解している。論理では肯定している。
だが、感情は――ただひとつの願いにすがっていた。
「……戻りたい」
それだけだった。
その晩、シャワーを浴びたあと、彼は洗面所で静かにタオルを絞った。
鏡の中の自分は、どこか別人のように見えた。
濡れた髪が額に貼りつき、地肌が透ける。
その姿が、どうしても“自分”だとは思えなかった。
彼はそっと洗面台を見た。
数本の毛が、白い陶器の上に落ちていた。
それは一本のメッセージのようだった。
「お前は、変わりつつある」
変化という名の、静かな脅迫。
彼はふと、自分の父親の頭を思い出した。
30代後半で、完全に禿げ上がっていた。
笑って「遺伝だ」と言っていたが、その笑いには苦味があった。
自分も、あの道をなぞるのか――。
ベッドに入ると、天井を見ながらまた考えていた。
「このまま禿げても、生きてはいける。たぶん」
「でも、禿げなかった世界も見てみたかった」
「選べるなら、せめて“自分らしく薄く”なりたい」
「そんな言葉に意味があるのか?」
思考はどこまでも堂々巡りだった。
しかし、その堂々巡りの渦こそが、彼の“日常”になり始めていた。
頭のなかは、まるで鏡の前のように、映像と問いで満ちていた。
明日もまた、洗面所の上で静かな戦いが始まる。
落ちていく髪と、自分自身との折り合いをどうつけるか――それは、まだ誰にもわからない。
最近のコメント