第2話 洗面台の上の地獄

朝、目が覚めて最初に確認するのは、もうスマホの通知ではなく、になった。
まだ明けきらぬ薄明かりの中、トモユキは首をひねって、白い枕カバーの上をじっと見つめる。
そこにあるのは、細く、少しうねった髪の毛――1本、いや2本。
「……こんなもんか」
口に出してみると、余計に現実感が強まった。どこかで、“今日はマシだ”と安心しようとしていた。

洗面所に立ち、白い蛍光灯の下、トモユキは鏡に映る自分を見つめる。
額のライン、前髪の透け方。光の当たり具合で変わる地肌の存在感。
今日は、昨日よりもマシか? それとも少し進んでいるのか?

わからない。いや、本当は、わかっている。
だが「わからない」という曖昧な言葉に逃げ込むことで、なんとか自分を宙吊りにしているだけだ。
この曖昧さが、彼にとって唯一の“猶予”だった。


心の中では、いくつもの声が同時に鳴っていた。

「薄毛でもかっこいい人はたくさんいる」
「ジェイソン・ステイサムとかブルース・ウィリスとか……」
「いや、あれは“もともと強そう”な顔だから成立するんだ」
「それに比べて俺の顔は……地味で、輪郭も弱いし、眉も薄い……」

「スキンヘッドにすればいいじゃないか。潔くていい。ハゲ散らかすより、坊主にした方がいい」
「けど、スキンヘッドは勇気がいる。会社ではどうなる? 客先に行けるか?」
「それに、帽子を脱いだとき、誰が笑う?」
「“潔さ”という美徳を掲げるのは、結局“逃げ”なんじゃないか?」
「じゃあ育毛するか?」
「……でも、それは“足掻き”じゃないか? 足掻く姿って、一番かっこ悪いんじゃないか?」

そんな問いが、次々と浮かんでは消えていった。


髪を乾かすとき、ドライヤーの風が額に直接当たる瞬間が怖い。
髪の間をすり抜けて、頭皮がむき出しになっていくあの感覚。
「前はこんなに風を感じなかった」
そんな実感が、すべてを物語っている。

鏡を見て、前髪をめくってみる。
すると、地肌が帯状に現れる。
そのラインを目で追っていると、奇妙な地図を見ている気分になる。
“薄毛という国”が、少しずつ、静かに、自分の領土を侵食していく。
戦わずに占領されていく感覚。

「俺は、髪を失っているのか」
そう呟いたとき、突然、頭の中で別の声が応えた。
「違う、“自分の輪郭”を失っているんだ」


昼、外出先のカフェのトイレでも、彼は洗面所の鏡の前に立った。
そこで、自分の姿をふと「見るに堪えない」と思ってしまった瞬間があった。
それは、前髪のせいではない。
どこか、全体的に“弱って”見えたのだ。
髪が後退することで、自信や覇気までもが一緒に後退していくような錯覚。

「けれど、そんなこと気にしない人間も世の中にはいる」
「むしろ、そういう男が強いんだ。内面で勝負できる人間」
「髪に執着するほうが、弱いのかもしれない……」

だが、そう考えれば考えるほど、苦しかった。
頭では理解している。論理では肯定している。
だが、感情は――ただひとつの願いにすがっていた。
「……戻りたい」
それだけだった。


その晩、シャワーを浴びたあと、彼は洗面所で静かにタオルを絞った。
鏡の中の自分は、どこか別人のように見えた。
濡れた髪が額に貼りつき、地肌が透ける。
その姿が、どうしても“自分”だとは思えなかった。

彼はそっと洗面台を見た。
数本の毛が、白い陶器の上に落ちていた。
それは一本のメッセージのようだった。
「お前は、変わりつつある」
変化という名の、静かな脅迫。

彼はふと、自分の父親の頭を思い出した。
30代後半で、完全に禿げ上がっていた。
笑って「遺伝だ」と言っていたが、その笑いには苦味があった。
自分も、あの道をなぞるのか――。


ベッドに入ると、天井を見ながらまた考えていた。
「このまま禿げても、生きてはいける。たぶん」
「でも、禿げなかった世界も見てみたかった」
「選べるなら、せめて“自分らしく薄く”なりたい」
「そんな言葉に意味があるのか?」

思考はどこまでも堂々巡りだった。
しかし、その堂々巡りの渦こそが、彼の“日常”になり始めていた。
頭のなかは、まるで鏡の前のように、映像と問いで満ちていた。

明日もまた、洗面所の上で静かな戦いが始まる。
落ちていく髪と、自分自身との折り合いをどうつけるか――それは、まだ誰にもわからない。