第4話 帽子をかぶる人間たち

キャップをかぶると、視界が少し狭くなる。
そしてその狭まった視界の中で、人の目を恐れる気持ちが少し和らぐ。
そんな感覚が、今のトモユキには必要だった。

「蒸れるな」
と、帽子をかぶったまま歩きながら、口の中で小さく呟いた。
7月の陽射しは強く、風はぬるい。
それでも帽子を脱ぐという選択肢は、今の彼には存在しなかった。
まるで、帽子が“頭髪の代用品”であるかのように、彼はそれにしがみついていた。

駅までの道すがら、トモユキはすれ違う人々を観察していた。
それは無意識の行動だった。
だが、ある共通点に気づいたとき、彼の目は鋭くなった。

「……あの人も、帽子をかぶっている」

ランニング中の中年男性。
犬を連れた60代の女性。
スタバのテイクアウトを持って歩く若い男性。
どれも、それぞれに理由があるように見える。日差し避け、ファッション、ただの習慣。
だが、トモユキには違う“言い訳”が透けて見えた。

――この人も、俺と同じなのかもしれない。

帽子をかぶる人々が、皆どこかで“髪に自信のない人間”に見えてくる。
そこに妙な親近感と、同時に自嘲が芽生えた。

「いや、こんな被害妄想、バカみたいだ」
そう思う一方で、彼は帽子を少し深くかぶり直した。

電車に乗ると、斜め前の席に座るサラリーマンが目に入った。
スーツに、紺のキャップ。
年齢はおそらく自分と同じか、少し上。
その男も、帽子をかぶっていた。

彼はふと、相手の目線を気にしてみた。
だがその男はスマホの画面をじっと見つめていて、トモユキの存在にはまったく気づいていないようだった。
それでも――**「この人も俺を見てるかもしれない」**という想像が、勝手に膨らんでいった。

「お互いに帽子をかぶって、地肌を隠してる。まるで戦場の兵士だな」
そう考えた瞬間、ふいに笑いそうになった。
兵士というにはあまりにみすぼらしく、戦っている相手は他人ではなく、自分自身の老化だった。

その日、会社に着いてもトモユキは帽子を脱げなかった。
出社してすぐのフロアは人が少ない。
だが、午後から人が増え、同僚が近づいてくるにつれ、プレッシャーが膨らむ。
“帽子をかぶったまま仕事をする男”という違和感が、周囲に伝播する前に、どこかで脱がなくてはならない。

だが――脱げなかった。

「……あの、今日はちょっと頭の調子が悪くて」
そう言って、かすかに笑ってみせた。
それが通じたのか、同僚は「ああ、そうなんですね」とだけ返し、特に詮索はしなかった。
だが、トモユキの中では何かが崩れていた。

“帽子を理由に言い訳する人間”になってしまった自分。
それは、つい昨日まで「俺はまだ大丈夫」と思っていた男の、ささやかな敗北だった。

帰宅後、風呂場の鏡の前で帽子を外す。
ぺたんと潰れた髪。
根元に力のない毛。
風呂上がりの湿気に濡れ、鏡に映る姿は、やけに“疲れた人間”に見えた。

「帽子は……守ってくれるけど、やっぱり、逃げだよな」
言葉にした瞬間、自分自身に腹が立った。
逃げだとわかっていても、それを選んでしまう弱さ。
そして、その弱さを責める“もう一人の自分”。

彼は思った。
「帽子をかぶることは、防御ではなく、自分との距離を保つ手段なのかもしれない」
鏡に映る自分と目を合わせないためのバリア。
あるいは、“過去の自分”との接触を避けるためのマスク。

寝る前、トモユキはベッドに寝転がりながらスマホをいじっていた。
「帽子 ハゲ ばれる」
そんな検索履歴が、画面の上に並んでいた。
彼は深いため息をついた。

「明日も、帽子をかぶるかもしれない」
「でも、明後日はどうする? 1年後は? 5年後は?」

そんな自問を繰り返しながら、彼は目を閉じた。
帽子をかぶることで守られた頭は、今、静かに枕に沈んでいた。

そして、その下にある“本当の自分”は、誰にも見えないまま、眠りについていた。