キャップをかぶると、視界が少し狭くなる。
そしてその狭まった視界の中で、人の目を恐れる気持ちが少し和らぐ。
そんな感覚が、今のトモユキには必要だった。
「蒸れるな」
と、帽子をかぶったまま歩きながら、口の中で小さく呟いた。
7月の陽射しは強く、風はぬるい。
それでも帽子を脱ぐという選択肢は、今の彼には存在しなかった。
まるで、帽子が“頭髪の代用品”であるかのように、彼はそれにしがみついていた。
駅までの道すがら、トモユキはすれ違う人々を観察していた。
それは無意識の行動だった。
だが、ある共通点に気づいたとき、彼の目は鋭くなった。
「……あの人も、帽子をかぶっている」
ランニング中の中年男性。
犬を連れた60代の女性。
スタバのテイクアウトを持って歩く若い男性。
どれも、それぞれに理由があるように見える。日差し避け、ファッション、ただの習慣。
だが、トモユキには違う“言い訳”が透けて見えた。
――この人も、俺と同じなのかもしれない。
帽子をかぶる人々が、皆どこかで“髪に自信のない人間”に見えてくる。
そこに妙な親近感と、同時に自嘲が芽生えた。
「いや、こんな被害妄想、バカみたいだ」
そう思う一方で、彼は帽子を少し深くかぶり直した。
電車に乗ると、斜め前の席に座るサラリーマンが目に入った。
スーツに、紺のキャップ。
年齢はおそらく自分と同じか、少し上。
その男も、帽子をかぶっていた。
彼はふと、相手の目線を気にしてみた。
だがその男はスマホの画面をじっと見つめていて、トモユキの存在にはまったく気づいていないようだった。
それでも――**「この人も俺を見てるかもしれない」**という想像が、勝手に膨らんでいった。
「お互いに帽子をかぶって、地肌を隠してる。まるで戦場の兵士だな」
そう考えた瞬間、ふいに笑いそうになった。
兵士というにはあまりにみすぼらしく、戦っている相手は他人ではなく、自分自身の老化だった。
その日、会社に着いてもトモユキは帽子を脱げなかった。
出社してすぐのフロアは人が少ない。
だが、午後から人が増え、同僚が近づいてくるにつれ、プレッシャーが膨らむ。
“帽子をかぶったまま仕事をする男”という違和感が、周囲に伝播する前に、どこかで脱がなくてはならない。
だが――脱げなかった。
「……あの、今日はちょっと頭の調子が悪くて」
そう言って、かすかに笑ってみせた。
それが通じたのか、同僚は「ああ、そうなんですね」とだけ返し、特に詮索はしなかった。
だが、トモユキの中では何かが崩れていた。
“帽子を理由に言い訳する人間”になってしまった自分。
それは、つい昨日まで「俺はまだ大丈夫」と思っていた男の、ささやかな敗北だった。
帰宅後、風呂場の鏡の前で帽子を外す。
ぺたんと潰れた髪。
根元に力のない毛。
風呂上がりの湿気に濡れ、鏡に映る姿は、やけに“疲れた人間”に見えた。
「帽子は……守ってくれるけど、やっぱり、逃げだよな」
言葉にした瞬間、自分自身に腹が立った。
逃げだとわかっていても、それを選んでしまう弱さ。
そして、その弱さを責める“もう一人の自分”。
彼は思った。
「帽子をかぶることは、防御ではなく、自分との距離を保つ手段なのかもしれない」
鏡に映る自分と目を合わせないためのバリア。
あるいは、“過去の自分”との接触を避けるためのマスク。
寝る前、トモユキはベッドに寝転がりながらスマホをいじっていた。
「帽子 ハゲ ばれる」
そんな検索履歴が、画面の上に並んでいた。
彼は深いため息をついた。
「明日も、帽子をかぶるかもしれない」
「でも、明後日はどうする? 1年後は? 5年後は?」
そんな自問を繰り返しながら、彼は目を閉じた。
帽子をかぶることで守られた頭は、今、静かに枕に沈んでいた。
そして、その下にある“本当の自分”は、誰にも見えないまま、眠りについていた。
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