朝の通勤電車は、いつもと同じ揺れと人の波だった。
だがトモユキの心は、昨日とは違う。
バッグの中にある小さな包み――返された折りたたみ傘が、妙に重い。
あのメモ、「またお世話になるかもしれません」。
ただの社交辞令にしては、引っかかる。
気にならないようにすればするほど、その文字が浮かび上がる。
会社に着くと、美香はもう席にいた。
髪を後ろでゆるくまとめ、細い指でパソコンのキーボードを叩いている。
「おはようございます」
「おはようございます」
互いの声が交差する瞬間、視線は合わなかった。
それでも、何かの温度が空気に残る。
午前中は会議。
トモユキは議事録を取りながら、ふと横目で美香を見た。
彼女は真剣な顔でメモを取り、ときおり頷いている。
その横顔に、傘を貸したあの日の大学時代の記憶が重なった。
――もしかして、あのメモには本心が?
そんな考えが浮かんだ瞬間、上司の声が耳に刺さった。
「田島くん、そこ確認しておいて」
慌ててペンを走らせる。
机の下では、膝が小さく揺れていた。
昼休み、給湯室でコーヒーを淹れていると、美香が入ってきた。
「昨日はすみません、急に傘なんて返しちゃって」
笑顔とともに差し出された言葉は、柔らかかった。
「いえ…全然。あれ、役に立ちました?」
「はい、とても。あの日、本当に助かりました」
その「本当に」という一語に、妙な真実味を感じる。
だが次の瞬間、彼女はカップにミルクを注ぎながら、ぽつりと言った。
「また借りちゃうかもしれませんね」
それは、昨日のメモと同じ言葉だった。
一瞬、心臓が跳ねる。
「…そうなったら、喜んで」
声が震えないよう、必死に抑えた。
午後は外回り。
取引先のオフィス街で信号待ちをしていると、向かいの歩道に美香の姿があった。
彼女は誰かと並んで歩いている。
相手は背の高い男性、スーツの襟元に赤いネクタイ。
二人は笑いながら、何かを話していた。
信号が青に変わる直前、男性が美香の肩に手を置いた。
その仕草が、トモユキの胸に小さな針を刺す。
帰社後も、あの光景が頭から離れなかった。
夕方、美香がデスクに戻ってきたとき、無意識に彼女の肩を見てしまう。
何も変わらない。
ただ、自分だけが変に意識している。
退勤間際、デスクの上に一枚の付箋が置かれていた。
「今日、お時間ありますか?」
差出人は書かれていない。
だが、丸みを帯びた文字から、美香だとすぐに分かった。
待ち合わせ場所は、会社近くのカフェ。
夕方の光が窓から差し込み、テーブルの上に柔らかな影を落としている。
「急に呼び出してすみません」
美香はカップを両手で包みながら言った。
「いえ…」
言葉が続かない。
「実は…」
そこで彼女は、一瞬ためらった。
店内のBGMが少し大きくなり、言葉が途切れる。
トモユキは身を乗り出す。
「はい?」
「…あ、やっぱり後で話します」
微笑むと、彼女は話題を変えた。
帰り道、カフェでの会話の断片が頭の中で何度も再生される。
――実は、何を言おうとした?
そして、なぜやめた?
駅の階段を降りる途中、背後から誰かの視線を感じた。
振り返ると、人混みの中に背の高い男性の姿が一瞬見えた。
赤いネクタイ。
だが次の瞬間、彼は人波に消えた。
傘の包みを握る手に、じわりと汗がにじむ。
美香、そしてあの男。
二人の間にある何かが、静かに、しかし確実にトモユキの世界を揺らし始めていた。
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