翌朝、出社途中のトモユキは、改札を抜けた瞬間に胸の奥がざわついた。
湿った秋の空気の中で、ひときわ鮮やかな赤が視界の端に揺れた気がしたのだ。
それは昨日、カフェの外で一瞬だけ目にしたあの赤いネクタイ――。
振り返る。
しかしそこには、傘を差して足早に歩く人々の群れしかいない。
雨は降っていないのに、空はどんよりと曇っており、駅前のビル群の窓ガラスが鈍く光を反射していた。
気のせいかもしれない。
そう思って歩き出すが、胸のざわめきは消えなかった。
会社に着くと、美香はまだ来ていなかった。
デスクに腰を下ろすと、昨日の付箋が脳裏に浮かぶ。
“今日、お時間ありますか?”
あの一文が呼び出したのは、カフェでの短い沈黙と、美香が言いかけてやめた「実は…」だった。
――あれは何だったのか?
「単なる雑談のつもりだった」と片付けるには、彼女の瞳の奥に確かに影があった。
午前中の会議。
集中して資料を見ていたはずが、不意に扉が開き、美香が入ってくる。
淡いベージュのブラウス、軽やかにまとめられた髪。
一瞬、その後ろから赤い色が覗いたように見え、心臓が跳ねる。
しかし、それは別の同僚が抱えていた赤いファイルだった。
自分でも可笑しいほど、神経が過敏になっている。
休憩時間、給湯室に入ると美香が一人でコーヒーを淹れていた。
湯気とともに漂う香ばしい香り。
「昨日は…何を言おうとしたんですか?」
思い切って問いかけると、美香はスプーンを持ったまま、一瞬だけ動きを止めた。
「…タイミングが悪かっただけです」
「タイミング?」
「ええ。あの店で話すのは、少し…落ち着かなくて」
微笑はあるが、瞳の奥は深く閉ざされている。
その笑顔は、何かを隠すために練習されたようにも見えた。
午後、外回りで訪れた高層ビルのロビー。
エスカレーターを上がる途中、下りの側で赤いネクタイが揺れた。
昨日の男だ。
背が高く、無表情で、携帯を耳に当てている。
視線が合った――気がした。
だが男は何事もなかったかのように通り過ぎていった。
その一瞬、背筋に冷たいものが走る。
夕方、オフィスに戻っても、あの男の姿が脳裏から離れない。
“気のせい”と片付けられないのは、確かに視線を感じたからだ。
人混みの中で、自分だけを見ていたような――。
夜。
残業を終えて会社を出ると、街は少し湿った風に包まれていた。
街灯の下を歩くたび、影が自分の足元から伸びたり縮んだりする。
細い路地に差しかかったとき、またあの気配を感じた。
振り返る。
十数メートル後ろに、赤いネクタイの男が立っている。
街灯が斜めから照らし、その顔は半分影になっていた。
表情は読み取れない。
トモユキが一歩踏み出すと、男はゆっくりと別の路地へ消えた。
足音は、なぜか一度も聞こえなかった。
家に帰ると、スマホに通知があった。
差出人は美香。
「明日、少しお話しできますか?」
短い一文の後に、見慣れないスタンプがついている。
赤い傘を持ったキャラクターが、笑顔でこちらを見上げているスタンプだった。
偶然か?
それとも――。
胸の中で、傘とネクタイ、そして赤という色が、ひとつの輪郭を形作ろうとしていた。
ただ、その中心に何があるのかは、まだ霧の中だった。
窓の外では、秋風が強まり、電線が低く唸っていた。
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