第15話 声にならない言葉

翌日、トモユキは出社する前から妙な胸騒ぎを感じていた。
秋の朝らしい、澄んだ空気。
なのに、足取りは重い。
昨夜スマホに届いた美香からのメッセージ――「明日、少しお話しできますか?」――が頭から離れない。
赤い傘のキャラクターがこちらを見ているあのスタンプも。

オフィスに入ると、既に美香がデスクに座っていた。
昨日より少し疲れた表情だが、笑顔を見せる。
「おはようございます」
「お、おはよう…」
短い挨拶の後、互いに何も言わず、それぞれの仕事に没頭するふりをした。
だがトモユキの耳は、美香がキーボードを打つ音や、椅子がわずかに軋む音まで拾ってしまう。

午前中の打ち合わせが終わると、美香がそっと近づいてきた。
「お昼、外に出ませんか?」
その声は、ごく自然に聞こえる。
だが、わずかに震えているのをトモユキは聞き逃さなかった。

駅前の小さな洋食屋に入ると、店内はランチタイムで賑わっていた。
窓際の席に座り、注文を終えると、美香は一度深呼吸をした。
「昨日のこと…なんですけど」
――来た。
トモユキは心臓の鼓動が強くなるのを感じた。

「実は…」
美香の唇が動き始めた、その瞬間だった。

店の入口のベルが鳴った。
反射的にそちらを見ると、赤いネクタイが目に飛び込んできた。
昨日の男だ。
無表情のまま、店内をゆっくりと見回す。
その視線が、わずかにこちらをかすめた気がした。

「…どうかしました?」
美香が不安そうに尋ねる。
「いや…なんでもない」
トモユキは慌てて視線を外したが、背中に冷たい汗が流れる。
男は奥の席に腰を下ろし、コートを脱いだ。
客のふりをしているのかもしれない。
だがその存在感は、空気を一段重くするようだった。

料理が運ばれてきても、美香の話は進まない。
彼女はフォークを持ったまま、何度も口を開きかけては閉じる。
視線を伏せるたび、長い睫毛がわずかに震えている。

「美香さん…」
トモユキが声をかけると、美香はようやく小さくうなずいた。
「トモユキさんにだけは…話そうと思って」
その時、背後で椅子が引かれる音がした。
赤いネクタイの男が立ち上がり、ゆっくりと出口へ向かって歩き出す。
通りすがりに、ほんの一瞬だけトモユキを見た。
目が合った瞬間、息が詰まる。
あの瞳には、感情らしきものがほとんどなかった。

ベルが再び鳴り、男の姿は街の雑踏に消えた。
残された空気は、妙に静かで、重い。

「さっきの人…知り合いですか?」
美香の声はかすかに震えている。
「いや…見たことはあるけど…」
答えながら、トモユキの脳裏には昨日、一昨日と続けて見かけた男の姿が重なっていた。
偶然にしては、あまりに回数が多すぎる。

食事を終え、店を出ると、街は曇り空の下で灰色に沈んでいた。
ビルの谷間を抜ける風が、薄くなった前髪をそっと揺らす。
美香は歩きながら、何度も周囲を振り返った。
「…今日は、もう少ししてから話します」
「どうして?」
「…外だと、落ち着かないんです」
それ以上は語らなかった。

午後の仕事中も、美香は何度もスマホを覗き込み、何かを打ちかけては消していた。
時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる。
夕方、彼女は小さくため息をつくと、トモユキにだけ聞こえる声で言った。
「今夜、連絡します」

夜、自宅の部屋。
外からは秋の風に揺れる木の葉の音が聞こえる。
スマホが震えた。
美香からのメッセージだ。
「やっぱり直接会って話したい。明日、終業後に…」
そこまで打たれた文章の下に、また赤い傘のスタンプがあった。

画面を見つめるうちに、背筋がぞわりとした。
その時、窓の外の街灯の下を、赤いネクタイが一瞬だけ横切ったように見えた。
目の錯覚かもしれない。
しかし、心臓はもう、疑うことをやめていた。

――あの視線は、確かにこちらを知っている。