第16話 影の輪郭

翌日、トモユキは出社する道中、何度も振り返った。
昨日の夜に見た、あの街灯の下の赤いネクタイの影――あれが本当に現実だったのか、確かめるように。
秋晴れの朝なのに、空気はどこか湿り気を帯びているように感じられた。

オフィスに着くと、美香はまだ来ていなかった。
デスクに座り、パソコンを立ち上げても、集中できない。
周囲の会話や電話の音が、どれも遠くから聞こえてくる。
やがて、美香がドアを開けて入ってきた。
彼女はいつもより少し厚手のコートを着ていて、目の下にはうっすらと影があった。

「おはようございます」
「…おはよう」
言葉は交わしたが、互いに目を合わせる時間は短かった。
昨日の続き――その一言を切り出す勇気は、まだトモユキの口元に集まってこない。

昼休み、美香が近づいてきた。
「…今日、終業後に駅前で。あの…人目の少ないところがいいです」
その小声は、ほとんど風の音に消えそうなほどだった。
うなずいた瞬間、背後でコピー機のトレイがガシャリと落ちた。
振り返ると、総務課の中年男性が慌てて用紙を拾っている。
――何でもない偶然だ、と自分に言い聞かせた。

夕方、ビルを出ると、美香は既に駅前のベンチに座っていた。
イルミネーションが点き始めた街は、どこか浮ついた雰囲気を帯びている。
だが美香の表情は、光に照らされても明るくならなかった。

「ここじゃ…ちょっと落ち着かないですね」
美香は立ち上がり、駅から少し離れた裏道へ歩き出した。
人通りの少ない、小さな公園のベンチに腰を下ろす。
足元には落ち葉が積もり、夜風がさらさらとそれを転がしていく。

「昨日の人…覚えてますか?」
美香の声は、予想よりも低かった。
「赤いネクタイの男のこと?」
彼女は小さく頷いた。
「…あの人、私の元…いや、知り合いです」
「知り合い?」
「でも、もう何年も会っていませんでした。本当は、もう会うことはないはずだったんです」

その言葉に、トモユキの背筋が強張る。
「じゃあ、なんで…」
「わかりません。ただ…見られている気がするんです。あの日から」

沈黙が落ちた。
公園の外を、酔った会社員たちが笑いながら通り過ぎる声が遠くに響く。

「私、あなたにこんな話をする資格があるかわからない。でも…昨日から、あなたも巻き込んでしまった気がして」
美香の手が、ベンチの上でかすかに震えている。
その手を握るべきかどうか、トモユキは一瞬迷った。
だが、指先がほんの少し触れただけで、美香は小さく身を引いた。

「…怖いんです。あの人が、なぜ今になって現れたのか。何を見ているのか」
「警察に相談したほうが」
「証拠がないんです。ただ…視線だけ。私が神経質なだけかもしれない」

その時、公園の入口に人影が揺れた。
街灯の光の中に、赤い色が一瞬だけ浮かぶ。
赤いネクタイ。
男は立ち止まり、こちらをじっと見ている――ような気がした。

トモユキは立ち上がった。
だが、次の瞬間には男の姿は消えていた。
周囲を見回しても、足音すら聞こえない。

美香は顔を伏せたまま、小さく呟いた。
「…ほら、やっぱり」

二人は言葉を失ったまま、公園を出た。
駅前まで戻る道すがら、トモユキは何度も振り返った。
けれども、赤いネクタイの影はどこにもなかった。

別れ際、美香は短く言った。
「…明日、少し早く来てくれますか。オフィスじゃないところで、話したいことがあるんです」

家に帰り、窓から夜の街を眺める。
遠くのビルの屋上に、一瞬、赤い点が見えた気がした。
ネオンか、信号機か、それとも――。