第20話 「同じ悩みを抱えた夜」

会社の帰り道、トモユキは久しぶりに同僚の佐伯に誘われ、駅前の居酒屋に立ち寄った。
佐伯は同じ部署の先輩で、普段から人当たりが良く、仕事も早い。トモユキにとっては、尊敬と嫉妬の入り混じった存在だった。

「いやー、雨が続くと気分が沈むな。トモユキ、お前も疲れてる顔してんぞ」
「……そうですかね。まあ、ちょっといろいろ考え事があって」
「考え事って、女か?それとも仕事か?」

佐伯は冗談めかして笑ったが、トモユキの表情が曇っているのに気づき、グラスを口に運んでから少し真面目な顔になった。

「なあ、お前、髪のこと気にしてるだろ」

唐突な言葉に、心臓が跳ねた。ビールの泡が喉にひっかかり、咳き込みそうになった。

「えっ……」

「いや、俺もそうだからさ」

佐伯は自分の頭を軽く叩いた。前髪を上げれば、うっすらと地肌が透けている。普段は整髪料で上手く隠しているが、よく見れば後退が始まっているのは分かった。

「学生の頃はさ、俺、サッカー部で坊主だったんだよ。で、卒業して伸ばしたときは髪多い方だって言われてたのに……30越えてから一気に来た。で、鏡見るたびになんか落ち込むんだよな」

トモユキは思わず黙り込んだ。自分だけじゃなかったのだ、と胸の奥に小さな火がともる。

「会社でも、結構言われんだよ。『佐伯さん、だいぶキテますね』って。冗談っぽいんだけど、笑えないんだよな。正直、きつい」

初めて聞く先輩の弱音だった。普段は冗談ばかりで、何事も笑い飛ばしているように見える人が、実は同じ悩みを抱えていた。

「……俺も、そうなんです」
「だろうな。視線で分かる。お前、気にしすぎてるだろ」
「はい。電車で立ってるときとか、後ろの人の視線が頭に突き刺さってくる気がして」
「分かる分かる!俺もエスカレーター上るときとか最悪だ。絶対見られてる気がして、背筋が凍る」

二人は顔を見合わせ、思わず笑った。自虐の笑いではあったが、その笑いは不思議と救いになった。

二軒目に移動し、落ち着いたバーでグラスを傾けながら、佐伯は自分の体験をさらに語った。

「俺、一回カツラ屋に行ったんだよ」
「えっ、ほんとですか?」
「うん。でも、試着した瞬間に違和感すごくてさ。『これじゃ逆に目立つんじゃ?』って思ってやめた」
「なるほど……」

「それでさ、今は育毛剤をいろいろ試してるけど、効果あるのかないのか分からん。けど、やらないよりはいいと思ってる」

佐伯は氷を転がしながら言った。

「トモユキ、お前もやれることはやっとけよ。悩んでる時間がもったいない。俺ら、まだ30代だろ?」

その言葉は鋭くも優しく、トモユキの胸に突き刺さった。

「俺……ずっと隠そうとばかりしてました。でも、昨日、髪の本を買って読んで、ノートに日記みたいなのを書いたんです。少しだけ楽になったんですけど……」
「お、いいじゃん。それ大事だぞ。俺も昔、スマホに『薄毛日記』って作ってたからな。シャンプー変えた日とか、食べたものとか記録して」
「えっ、佐伯さんも?」
「おう。笑うなよ」

二人はまた笑った。けれど今度の笑いは、ただの冗談ではなかった。同じ悩みを共有することでしか生まれない、奇妙な連帯感だった。

帰り道、夜風は少し冷たく、街は雨上がりで光をまとっていた。

「なあトモユキ、俺らで一緒に試してみねえか?」
「試すって?」
「ジムでも通って、体動かすとかさ。血行良くなるし、気分転換にもなる。髪だけじゃなくて、気持ちが変わると思うんだ」

「……いいかもしれないですね」

そう答えながら、トモユキは思った。
同じ悩みを抱えている人間と話すだけで、これほど気持ちが軽くなるのか、と。

昨夜、雨音に救われた心が、今夜は人との会話によってさらに温められていた。

家に帰り、ベッドに横たわると、昼間の自分と夜の自分の違いを強く感じた。
昼は職場で笑い声を恐れていた。
だが夜は、同じ悩みを抱える人と笑い合えていた。

「……俺は、ひとりじゃない」

そう呟くと、不思議な安堵が胸に広がり、眠りは自然に訪れた。

そして夢の中で、父と佐伯と自分が並んで笑っている光景を見た。髪の量など関係なく、ただ同じ人間として。