第23話 声の重み

朝、トモユキは目を覚ますと、まず枕を触った。指先に残る細い毛の感触が、すぐに胸をざらつかせる。
「……また抜けたか。」
小さな呟きは、ため息に飲み込まれる。洗面所に立ち、鏡に映る自分を見つめると、前髪の隙間から地肌がうっすらと覗いているのが分かった。

今日は社外の人も集まる合同イベントの日だった。プレゼンを任されたわけではない。だが、同業者との交流会は、ただそこにいるだけで「外見」が突きつけられる場だ。
「帽子……かぶって行くか?」
クローゼットを開け、キャップを手に取った。だが、スーツに帽子という格好は滑稽に見えるだろう。ためらっていると、内側からもう一人の自分の声が響く。
――結局、お前は隠したいだけなんだろ?

電車に揺られる時間は、他人の髪を数える時間でもあった。目の前の若い男の黒々とした毛量、隣に立つ女性の艶やかな髪。そのすべてが自分を鏡に映すようで、視線を逸らそうとするたびに、逆に頭頂部に熱が集まる。

会場に着くと、すでに大勢の人々が集まっていた。華やかな笑い声、軽快な名刺交換の音。
トモユキは人の輪に近づけず、壁際に立った。
(みんな髪が整ってる……誰も頭皮を気にしてない顔をしてる……)
目に映るのは、七三に分けた営業マン、ワックスで立ち上げた若手、自然体の無造作ヘアの男。彼らの髪型一つ一つが、自分にはもう選べない選択肢のように思えた。

「君、初めて見る顔だね?」
低く落ち着いた声に振り返ると、一人の男が立っていた。年の頃は四十代半ば、スーツは皺ひとつなく整えられている。だが、目を引いたのは頭部だった。
完全に剃り上げられた光沢のあるスキンヘッド。だがその表情には威圧感がなく、むしろ柔らかい余裕が漂っていた。

「え、あ……トモユキです。うちの会社からは初めて参加で……」
「斎藤だ。よろしく。」
差し出された手は温かく、力強かった。

少し雑談を交わすうちに、斎藤はふと笑いながら言った。
「最初は俺も、隠そうと必死だったんだよ。」
「……え?」
「帽子とかウィッグとか。電車で人の目を気にして、暑いのに汗だくになってさ。でもある日、もうやめようと思った。『ないものを隠すより、堂々としたほうが楽だ』ってな。」

トモユキの心臓が跳ねた。
まるで自分の胸の奥を見透かされたようだった。

「でも……恥ずかしくないんですか?」
やっとの思いで絞り出した問いに、斎藤は肩をすくめた。
「恥ずかしいと思うのは、自分自身だ。他人はそこまで気にしちゃいない。もちろん、全員が理解するわけじゃない。だが、自分で自分を笑ってしまえば、案外、世界は優しくなる。」

その瞬間、会場の喧騒が一瞬遠のいた。
笑い声や名刺の紙音は続いているのに、トモユキの耳には斎藤の声だけが重く響いていた。

過去の記憶が蘇った。
高校の頃、野球部の後輩に「先輩ってちょっとおでこ広いっすよね」と笑われた夜、布団をかぶって泣いたこと。
社会人になって初めて髪が薄く見えた写真を見て、データを消したこと。
飲み会で同僚の「お前ハゲてきたんじゃね?」という冗談に笑顔を作りながら、心の奥で冷たい鉛を飲み込んだこと。

――あの日々を、この人は通り抜けてきたのか。

「俺はね、髪を失って初めて、他人の目じゃなく自分の目で自分を見られるようになった。」
斎藤の言葉が、重しのように胸に落ちる。

イベントが終わり帰宅した夜、トモユキは古いアルバムを開いた。
満面の笑みで大学の仲間と並ぶ自分。髪はまだ豊かだった。だが、そこには今の自分では到底出せない無邪気さがあった。
「……戻りたいわけじゃない。」
思わず声に出す。
本当に戻りたいのか? それとも、今の自分を受け入れる勇気が欲しいだけなのか?

鏡の前に立つと、光の下で薄くなった前髪が透けて見えた。
その一方で、斎藤の笑顔が頭に浮かぶ。
「隠すより、堂々としたほうが楽だ」
彼の声が何度もこだまする。

スマホを取り上げると、美香からの未読メッセージが届いていた。
「トモユキさん、次に会える日、相談したいことがあります」

胸の奥に再びざわめきが走る。
彼女の相談とは何なのか。
そして、なぜ今なのか。

窓の外で、街灯に照らされた電線が風に揺れていた。
トモユキは小さく深呼吸をして、メッセージの返信ボタンに指をかけた。

――そのときだった。
ふと視線を感じて、窓の外を見やった。
暗がりの中、赤いネクタイをした人影が一瞬こちらを見上げた気がした。

「……誰だ?」

次の瞬間には、もうその姿はなかった。
だが、胸の奥で高鳴る鼓動は止まらなかった。